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アメリカ黒人の日本人観

 

−− 先住インディアンを除けば、黒人はアメリカにおけるもっとも古い少数派民族集団(エスニック・マイノリティ)である。−−


”アメリカ黒人”の発生

アメリカ大陸がヨーロッパ人によって「発見」され、”新大陸”として開拓が始まった時、その土地の労働者として送り込まれたのが西アフリカの黒人たちだった。 新大陸の労働者には当初から黒人が狩り出されたわけではなく、最初はヨーロッパの、土地を買えない労働者が渡米して一定期間地主の労働者として働く、という仕組みが考え出された。この契約形態は、契約書の半分づつを雇用側と労働者が持ち、契約満了時に労働者が雇用主保管の契約書半分を受け取った上で自由となるという形式を取られたため、破かれた部分、つまりインデントしたところで合わせられるという意味で「インデンチューアード・サーバント」と呼ばれた。

広大な北アメリカ大陸においては、このインデンチュアードによる労働者では圧倒的に人材が不足であった。そのような時、アフリカの民族間対立で発生する”捕虜”というシステムにヨーロッパの商人たちは目を付けた。そして、その”捕虜”を売買し、新大陸へと送り込むという交易が行われた。 そこでは、交易とは言いつつも、人道的とは言い難いものであった。 又、インデンチュアード・サーバントと黒人との違いで顕著なものは、前者は保護する法律があったが後者にはなかったことだ。 初期の段階ではインデンチュアー法と似た法律のもとでやがて自由となった黒人もいたが、大多数はそうはならなかった。

北米の多くの地方では、黒人は生きているかぎり働かなければならず、その子供たちも同様であるとする法律を徐々に作っていった。 これは、黒人を「所有物」と見なす動きである。

北米への労働力提供を目的とする、主に西アフリカへの襲撃は、1619年から、合法的な輸入が禁止されたずっと後の1855年までの236年間にわたって続けられた。

人間の交易という恐ろしい行為が西アフリカを混乱に陥れた。ヨーロッパ人はアフリカの港に銃を持ち込み、小さな村々を襲撃した。彼らは、ときには自らが奴隷にされるのを避けるために、しかしそれ以上に単なる物欲によって協力するアフリカ人に武器を与え、港で待っている船に捕虜を供給するために隣人を襲撃させた。ヨーロッパ人の銃に対して自分達を守る術を知らなかった村々は崩壊した。この仕掛けられた戦争から身を守るために、人々は先祖の土地から村ごと逃げなければならなくなった。[1, P17]

当時アメリカはフロンティアであると見なされていたが、その裏の姿はアメリカ先住民弾圧とアフリカ黒人の酷使であった。 初期の植民者たちは積極的に、土地をアメリカ先住民から取り上げ、アフリカ黒人を労働力として使ったのである。

以下は、その並々ならぬ苦労を示すものである。

 どん底から、アフリカ系アメリカ人は一歩一歩はい上がる努力を続けた。アメリカという、自由を高らかに謳い上げて造られた国に、人間を他の人間の所有物にするという矛盾が存在し続けていた。それが矛盾であるということにすら気がつかない多くの人々が存在していたのだ。アフリカ系アメリカ人たちはその矛盾を取り除くために闘いをつづけてきた。
 アフリカ系アメリカ人たちは、野獣を捕まえて飼い慣らし、家畜にしたのと同じ方法でアメリカの奴隷とさせられた。そこが彼らの出発点だ。
 そこから彼らは、まず脱走し、南北戦争に参加し、リンチに抗議し、自己を磨き、街頭での闘争をくりひろげた。始めは自分の自由を求めるために、彼らは脱走した。それから妻や子供を買い戻すために金を貯めた。兵士となり、奴隷解放のために闘い、ジャーナリストとなって世論を呼び起こし、仲間のためにリンチや、そのほかの不正と闘った。わずかずつ恒常的な闘争だった。けれども、確実に、彼らは前進を続けていった。[1, P254]

このような長い抑圧を示すものとして、そして同時に、それらに屈しない不屈の心を示したものとして、以下の詩を紹介したい。

征服されないものと征服できないもの

                 ルイス・H・ラティマー

数えられないほど多くの不正と
数えられないほど多くの恐れとで
長い年月苦しめられたとしてもそれがなんだ
私の魂はいまでも涙を流すことを許さない
征服されないものと征服できないもの

ベッドがいばらで作られていても
前に進む航海が止められても
それがなんだ
私の魂はそんなことには平気で
空高く飛んでゆく
征服されないものと征服できないもの

鎖につながれて横たわろうとも
残忍な手にかかって死のうとも
それがなんだ
私の魂は空高く飛び続ける
征服されないものと征服できないもの

私に不正をはたらいたその手を私は軽蔑する
苦しみの日々は長いけれど
私の魂はあの死ぬことのない歌をうたい続ける
征服されないものと征服できないもの[1, P203]

あまりにも悲痛と絶望があるという前提、そしてそれに立ち向かう勇気とに満ちているのである。 もちろん、このような人ばかりでなく、絶望に打ちひしがれている者も多くいた。 又、偉くなっては白人に迎合し、小遣い稼ぎをしている人が目立った時期もあったりした。

始めは奴隷であった黒人も、着実な活動により、次第に自由を得るようになっていった。 だが、それはあまりにも遠い道のりだった。


日露戦争以前におけるアメリカ黒人の日本人観

19世紀後半から20世紀初頭の1904年(日露戦争直前)にかけて、黒人の持つ日本人のイメージには3つの大きな変化があった。 最初は白人と同様の、風変わりで理解できないといったもの。次に、日清戦争(1894-95)により中国を支配する国というイメージに変わり、やがて、日本人移民が自分達の雇用枠を脅かすのではないかという具体性のあるイメージへと変わっていった。


日本人は”アジアの黒人”

だが、次第に、日本人が人種的に黒人と同じような立場にいると黒人たちは考え始めた。

どちらも”全ての民族に平等を”というスローガンを掲げており、日本においてはその意識が不完全な面もあったが、それでも、黒人達は日本人のそのような姿勢に最大の敬意を送ったものだった。

 黒人たちが試みた日本人のさまざまな表現方法には、日本人の成功によって沸き立つ黒人たちの血がにじみ出ていた。「インディアナポリス・ワールド」紙は、日本人を「肌の色がほとんど黒に近い人びと」と表現し、「カラード・アメリカン・マガジン」誌は、「眠そうな目をしていて、髪が黒く、肌が白くない人びと」と描写した。ニューヨーク州トロイ出身の牧師、ジェイムズ・ボッディーは「もっとも進歩したアジアの黒人、わが同胞日本人よ」と、さらに日本人をほめそやす内容の投書を「ニューヨーク・エイジ」紙宛に出した。[2, P47]

このような報道、姿勢は、日本が満州を建国した時でさえ、多くの西欧の視点である”帝国主義”よりかは日本の行っている親和政策に多くの理解を示したものだった。 黒人の、日本に対する視線は特別だった。

 黒人が日本人に抱いていた関心はたいへん深く、一般のアメリカ中産階級が抱く日本趣味といったレベルにはとどまらなかった。黒人たちの趣味は、白人が日本人に敵意を募らせれば募らせるほど、増していった。白人社会の副産物という否定的な黒人イメージ−−−そんな自己否定から開放されたいと願う黒人にとって、日本人との同一視は、人種という意識の枠をさらに広げる結果となった。その枠のなかで、黒人は自らの運命を決定づけ、自らの方法論によって、自らの伝統に沿って生きてきた。そして、白人による偏見批判への基礎を築いてきたのである。[2, P50]

そして、黒人たちの親日感情は、日露戦争に向けて急速に高まって行く。

20世紀初頭の日本への黒人の関心は、一時の気まぐれに過ぎなかった。日本に対する意見も両面的で、ときには否定的でさえあった。しかし、黒人の知識人やジャーナリスト、中産階級の人々は、世界における日本人の立場が、アメリカでの黒人の立場と似ていると考えていた。そして、このような黒人の日本への関心は、日露戦争を機にますます高まっていくのである。[2, P51]


黒人が抱いていたコンプレックス

この当時の黒人感情を理解する為に、黒人が抱いていたコンプレックスをも理解する必要がある。

当時の黒人は、自分が黒人であるのにもかかわらず、黒人であることを嫌うというコンプレックスを持っていた。それ故に、”他の理由で黒人を好まない人がいたとしても、その全てを肌の色だとか、祖先への否定などというコンプレックスと同様に見てしまう”という問題を抱えていたのだ。

当時、多くの日本人は黒人をさほど嫌いもしなかったが、好んで好きにもならなかった。 接するときは、日本人を接するが如く、日本人に対してやさしくする場面では同じように黒人に対してもやさしくしたものだった。そこには、民族差別はなかったが、特別黒人に対する敬愛があったわけではなかった。 その日本人と、コンプレックスを持った黒人との間に起こった”誤解”から生じた事件として、次のような事例がある。

インディアナポリスのパーク劇場にて日本人学生が黒人女性の横にすわるのを嫌がったとされる事件。

1904年、ミズーリ州セントルイスで行われた万国博覧会において、黒人の女性たちから、日本人や中国人を食事やパーティーに招待したいという申し入れが行われたが、日本の万国委員会のメンバーはこれを断った事件。ここで日本のメンバーは、”我々は白人のみなさん懇意にして頂きたいのであって、黒人とは関わりたくないのです。”と発言したとされている。

これらの場面においては、日本人が嫌がったり断った理由そのものに対し、黒人側はそれを”拡大解釈”してこれらの問題を批判した。 これらの事件は、単なる無分別な発言としてのみ捉えられるべきではなく、黒人のコンプレックス問題と共に理解されるべきである。 特に後者は、たとえ日本人が黒人の肌の色を嫌っていなくとも、黒人にとっては肌の色を嫌っていると感じられてしまった事件であった。

黒人側も、皆が皆、このように日本人の態度を批判した訳ではなかった。 むしろ、賢明な黒人たちは日本人の立場をより深く理解しており、この(後者の)事件・批判はむしろ黒人の側に非があるとする者もいた。 元々、親しく接してくれていた日本人を、わざわざ黒人嫌いにさせてしまった、という批判もなされたほどであった。

その結果、この事件により、むしろ、黒人側が抱いていたコンプレックスが表面化する、という事態に達した。 このことにより、黒人の感じているコンプレックスを解消しなくては、という気運が一部で高まったのは、かなり賢明なことと言えるだろう。


日本人を応援することにより和まされる黒人の心

 このようなコンプレックスを抱えている黒人、自分に肯定的になれずに悩んでいる黒人たちが当時見ていたものは、世界の列強の仲間入りをした日本であった。 白人にしかできないとされていた偉業を成し遂げた日本。 上のような事件があったとしても、黒人の、少なくとも一部は日本人の立場に同情的であった。 セントルイスの黒人女性たちは、自分に否定的になっている黒人にとって、日本人を応援することがどれほど精神を和ませてくれるかを知っていたことだろう。


日露戦争開戦、そして日本の勝利

黒人は、日露戦争を人種間の戦争として捉えようとした。そして、多くの人が”黒人の変わりに行動してくれた”と考えたのだ。「ニューヨーク・エイジ」紙は日露戦争の勝利について、以下のような記事を載せている。

さあ、行け。小さな茶色い男たち。攻めて攻めて攻めまくれ。鋭い剣をさやに納めず、天罰を与えつづけるのだ。お前たちは、天地をひっくり返した。ロシアをやったんだ。プライドと力におぼれる、ほかの連中に同じ道をたどらせるのも、お前たちなのだ。[2, P57]

日本人と黒人は、性格が良く似ているという意見もあった。日本人の兵士が持っている、おとなしさと荒々しさの両方の資質や、謙虚になることを追求する心。おとなしい民族であるが、死をも恐れない侍魂などを指し、そのように言う人もあった。「シカゴ・ブロード・アックス」紙は日本人兵士が自らの血で書いた以下の詩を掲載したという。

わが君を
守るためこそ この命
たとえ明日のしずくとなろうとも [2, P59]

又、平時においても乱れることのないその規律・自制心を指し、強調して表現した者もあった。 個人的利益より集団の利益を追求する心に惹かれた者もいた。

 神々やお国のためなら喜んで犠牲になるという強い愛国心を持った日本人兵士。「ニューヨーク・エイジ」紙のあるジャーナリストは、この独特の考え方は、感情的な怒りによってではなく、極めて冷静な理性によって生み出されたものであると分析した。日本人の愛国心は「ぼんやりとしていてとらえがたく、西洋人には感じることも理解することもできない」という。それは日本人兵士にしかわからない。だからこそ、「日本の兵隊は、確実な死へと、完全に落ち着きはらって、飛びこんでいけるのだ」。このジャーナリストによれば、天皇や皇后から名もない兵士、農民の娘に至るまで、すべての日本人にこの精神が宿っているということだった。[2, P59]

日露戦争の日本勝利は、これに注目していたアメリカの黒人にとって、生涯最も喜びを感じたものの一つであった。有色人種は白人に勝つことができないと言う構造、それが真理ではなく、単なる創られた神話であったに過ぎなかったことを、日本は証明したのだ。 この時、日本においても3日3晩の提灯行列が行われ、トルコやポーランド、フィンランドなど、ロシアに苦しめられていた国々においては特にこの勝利が喜ばれたものだった。[a]

この戦争を契機に、黒人は日本人が自分たちと同じ有色人種だという同胞意識を、強く抱くようになった。この日本という小さな茶色い人びとのイメージは、もはや黒人の意識のなかで消すことのできないものとなってしまった。それはあたかもボクシングの試合で、ジョー・ルイスがマックス・メイリングやビリー・コーンに勝ったときの感覚のように、多くの黒人たちの心に刻まれていったのである。[2, P69]

当時、旅行で日本を訪れた黒人たちは、とても素晴らしい感想を残している。概ね、渡航中の船内などで会う日本人は「白人のマネ」をしていて白人以上に差別的であったと述べており、逆に、本土においてはまるで兄弟姉妹のように親密な歓迎を受けた、とその喜びを表している。 そのような人たちの中には、「白人によって毒されていない日本人には人種偏見は全くないという確信を持った」[2,P107] と述べた人たちもいた。又、日本人ほど「親切な民族」にあったことはなく、「もし日本人への偏見があるとしたら、むしろ『それはわれわれの方に問題がある』のではないか、と思った」[2, P107] とまで述べた人もあった。それによると、白人に対しては「義務的に」、黒人に対しては「兄弟姉妹」のように接してくれた、と述べられている。これらのストーリーで、とても印象的な物語がある。

 日本滞在でマクギーがもっとも印象に残ったのは、東京で開かれた環太平洋新教育会議だった。(中略)彼女の記憶によれば、黒人で参加していたのは彼女たちだけだった。だからこそ、よけいに黒人としての使命感を感じながら、彼女は黒人のことやアメリカのことを話した。そして、最後に、「あらゆる人種はお互いに協調し、平等に扱われるべきだ」と主張した。彼女によれば「聞いていた日本人の目には、涙があふれていた」という。彼女もまた、その光景に感動し、次のように感想を述べている。

  わたしは、何か新しい人びとに出会ったような気分になった。
  それまで、まったく意識したことのなかった人びとに
  信心深く、穏やかで、情けに満ちたこの人びとは、たいていの人が
  お世辞でしか言わないことを、心の底から言ってくれるのだ

このような姿が、戦前の日本にはあった。 謙虚で、おごりのない日本人。 それが本来の日本人としての姿ではないのか。


黒人達は、公民権運動へ

これらの流れをも加え、民族運動は盛んになっていった。 その頃には、一部の黒人達が不屈の心をもって立ち上がれるようにまでなっていた。

最初は、アフリカ系アメリカ人だけのための運動であった。だが、次第に、それは全人類のための運動へと変わっていった。この時代に生まれた多くの運動家たち、そしてマーチン・ルーサー・キング・ジュニア博士、そして晩年にキング博士に近づこうとしたマルコム・X、彼らは、黒人だけでなく全ての人々の平等の為に、命を投げ出してまでアメリカの建設に参加してきた。

キング博士は1963年8月28日、人々の心に長く記憶される演説をした。

私には夢がある。いつの日にかこの国の国民が起き上がり、その信条「われわれは、自明の真理として、すべての人間は平等に作られた」との真の趣意で生きぬく日のくることを。私には夢がある。ジョージアの赤い丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有主の息子たちが、兄弟としてテーブルで一緒に座ることのできる日のくることを。[1, P240]

以下は、マルコム・Xに関するエピソードである。

「アフリカ系アメリカ人は、白人とは別離して自分たちをしっかりさせなければならない」と言ったのはラジカリストと呼ばれたマルコム・Xだ。しかし、そのマルコムもメッカに行き、あらゆる色の肌をもったイスラム教徒と一緒に祈り、同じ器から飲んでから考え方を変えた。そしてすべての人類とともに闘っていこうと決意した。それまでは白人対アフリカ系アメリカ人との闘いだったのが、公民権運動を境にして人類のための闘いに変わっていったのだ。マルコム・Xはこの過渡期に自分の思想も改革しようとしたが、その半ばで凶弾に倒れてしまった。[1, P255]

マルコム・Xはその過激な発言・風貌で知られているが、晩年はキング牧師の流れに近づこうとしていた。心優しくなろうとしたマルコム・X、それが晩年の彼の姿であった。

それは、あまりに悲しい物語である。

 60年代は多くの暴力と憎しみとによって飾られた。マルコム・Xは暗殺され、ジョン・F・ケネディ大統領、その弟のロバート、そして白人黒人を含めた市民運動家たちが犠牲になった。
(中略)
 60年代はまた、記憶に留めるに大切なほかのことも私たちに与えてくれた。それは、人々が自分の望む学校へ行けるようになるために、自ら選択した候補者に投票できるように、そして誇りをもって胸を張れるように、そのために命がけで戦ったさまざまな肌の色の人たちの物語である。その中の何人かの人々のことを私たちはよく知っている。しかし数えられないほど多くの人々のことは忘れられていく。
(中略)
 私たちは、人間の尊厳のための闘いの証人として生き残った人々のことを、そして他の人がアメリカに約束されたすべてを享受できるようにと自らの命を犠牲にした人々のことを忘れてはいけない。[1, P241]


まとめ

20世紀初頭から1945年までの間に、黒人にとっての日本人のイメージは大きく変化していった。 最初は神秘的な存在として。そして日露戦争による意識の大変革、日本に対するただならぬ興味の増大。 だが、真珠湾攻撃に際しては、黒人はずいぶんと自らの感情を悩んだものだった。

そして、戦時中に行われた、日系人のみに対する強制収容への怒り。 常に彼らは日本のことを凝視してきた。 遥か海の彼方で、黒人たちがなすすべも無く立ち尽くしていた時に立ち上がった東洋の小国、その姿が、どれほど頼もしく、希望に満ち満ちていたことだろうか。 日本人は、黒人にとって大きな励みとなっていた。

これらの親日感情を表現するものとして、とあるアフリカ系アメリカ人による著書の言葉を、以下に引用することにしたい。

 歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それがアメリカ黒人だった。欧米中心主義に毒され、本当の友人と見せかけの友人の区別もつかないような日本人が増えている現在、心ある日本人がアカデミズムの場や政治の場での愚かな誤解や無知に直面したとき、何らかの反論を試みることができるよう、本書が少しでもお役に立てればと思う。また、純粋に黒人と日本人の関係をもっと知りたいと願う人々のカンフル剤になれば、と思う。この本を読んでいただければ、日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、心から理解してもらえるはずである。
 かつて、黒人から同じ有色人種として敬われていた日本人、そんな日本人が、今ふたたび、その尊敬と親愛の念を取り戻せることを、わたしは心から祈って止まない。おごりのない、謙虚な日本人−−−それがわたしの願いである。[2, P26]

このような願い、それが親愛なるアメリカ黒人たちから発せられているのである。

平成16年3月1日 20時0分

■リンク■
a 大東亜戦争 〜 アジアの忠臣蔵 〜

■参考■
1 アフリカ系アメリカ人  (ウォルター・ディーン・マイヤーズ 著)三一書房
2 20世紀の日本人 −アメリカ黒人の日本人観 1900-1945− (レジナルド・カーニー著)五月書房

 

 

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