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カナダの概略・歴史

 

カナダ文化の特徴

  1. 広大な土地にいた先住民と未開の土地とみなし入植したヨーロッパ人
  2. フランス革命以前の封建色の強いフランスの植民地が基礎となっている点

特に1は、アメリカやオーストラリア、北海道と同様の特徴となっている。 2は、カナダが保守的な国であることの根源を示している。

カナダ人像

古典的な”カナダ人像”は、以下のようなものである。

 カナダは、一般に順法精神に富み、国家統制志向が強く全体主義・グループ志向を示す国民である。また、エリート主義がカナダの国民的特質である。これらの特質は、カナダの建国者精神に源を発している。かれらは、「平和」と「秩序」と「良い政府」を至高の価値とみなし、「自由」より「平等」を、「競争」よりも「協調」を、そして「機会の平等」よりも「結果の平等」を尊重する傾向があった。このような価値観は、コミュニティへの義務が個人の権利より優先される社会を造る。 [1, p259]

ここには、アメリカのすぐ隣でありながらかなり違った文化を持つカナダの姿が見出せる。 1の著書の言葉を借りれば「革命の成功に基づく国家」アメリカと「反革命の成功した保守的国家」カナダの違いとなる。

国の象徴

ビーバーとメープルの葉。 国名は〈村〉を意味するイロコイ・インディアンの言葉に由来するといわれる。


カナダの先住民

カナダの先住民は以下の4つのグループに分類される。

  一、 政府認定のインディアン
  一、 インディアンとフランス或いはスコットランド系カナダ人の混血により誕生したメティス
  一、 政府非認定のインディアン
  一、 北極圏、アブラドル、ケベック州北部に住むイヌイット(かつてはエスキモーと呼ばれていた)

先住民の人口比率は全体の4%、少し古いデータであるが推定人口約111万人であり、それぞれの人口は以下の通りである。

  一、 政府認定のインディアン   29万人
  一、 メティスと政府非認定のインディアンの合計   80万人
  一、 イヌイット   2万2千人

尚、アメリカでもカナダでもインディアン人口は少しづつ増大しており、一部にある「滅び行く少数民族」のイメージは、文化的にはどうであれ、人口に関しては必ずしも正しくはない。


ヨーロッパ人と北米との出会い

以下によると、神話化すれどもかなり古くから北米大陸は知られていたようだ。

古くは前10世紀頃、ケルト人がニューイングランドに達したとの説もあるが、定かではない。一方、北欧中世の伝説『サーガ』によれば、ヴァイキングのエリクソンが紀元後10世紀にラブラドル半島とその近辺に到達したとある。[5, p19]

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15世紀になり大航海時代を迎えると、コロンブスの北米大陸発見(1492)に続き、イギリスやフランスの探検隊が北米に到達することとなる。イギリスは1497年にニューファンドランド、ケープ・ブレトン島近辺を調査し、同地域に足跡を残した。1538年にはフランスがニューファンドランド北部、セントローレンス湾、現ケベック州のガスペ半島に足跡を残した。同半島の先端ガスペ岬には「フランス国王万歳」と掘り込んだ大きな十字架を立てたという。

この後、フランスは国内の内乱のため探検が中断され、本格的な植民活動が再開されるのはブルボン王朝が成立し、国内の秩序が回復される17世紀に入ってからのことである。


カナダの歴史

カナダは、先住民の歴史を除けばフランスの植民地としてその歴史は始まった。

フランス領(ヌーベルフランス)時代

ヌーベルフランスの時代とは、次の期間を指す。

カルチェの第一回航海、すなわちフランスが明確な国家的意図にもとづいて北米に到達した1534年から、英仏植民地戦争によってフランスが敗北する1760年までの期間である。しかし本格的にヌーベルフランスが稼動するのは、シャンプレーンがケベックに要塞を築いた1608年からで、実際の期間は150余年といってよい。[5, p23]

”ヌーベルフランス”とは北米におけるフランス権力圏を指すが、命名された16世紀から17世紀にかけて、ヌーベルフランスとカナダとは同一であるかのような、あいまいな使い方をされてきた。 ヌーベルフランスの名称の由来は以下のようなものである。

ヌーベルフランスの名称は、イタリア生まれの航海士ヴェラツァーノが1524年、フランス王の名のもとにニューファンドランドからフロリダ沿岸を探検航海の途上、その新地を漠然と《ノヴァ・フランチェスカ》(新フランス)と名付けたことに由来する。[5, p21]

フランス領の版図は時代とともに拡大・変化し、またその境界線は必ずしも明確でなかった。 

この時代には今のような東西にまたがる広大なカナダではなく、東海岸沿いの現ケベック州、オンタリオ州を中心とした範囲の領土に限られていた。 又、北米にはフランス人だけがいたわけでは当然なく、イギリスやスペインなどと言った列強が勢力争いを行っていた。


毛布交易

 ヌーベルフランスの歴史の一面として、ビーバーを中心とした毛布交易が挙げられる。 それは”柔らかい宝石”そして”地位の象徴”としてヨーロッパの貴族・豪族・王侯の間で尊重されていた。

これが、現在でもカナダの象徴の1つにビーバーが挙げられている理由である。


フランスとイギリスの抗争

 北米の英仏は、17世紀末から半世紀以上にもわたって抗争期に入っている。 ヨーロッパにおいては英仏は必ず敵同士の立場にあり、その対立関係がそのまま北米でも展開された。

17世紀においてフランスはイギリスを包囲するような形で植民地が構築されていた。フロンティアは西へと広がっていったこの時代において、イギリスの植民地拡大を妨げるヌーベルフランスは、対立の理由となるに十分であった。
 幾つかの抗争が散発的に起こった後、フレンチ・インディアン戦争(1754〜1763)により全面戦争と化す。 人口比率ではイギリスの約120万に対するヌーベルフランスのわずか6万人と大きな差が生じているが、最初はフランス側に戦況が有利に働いた。 ヌーベルフランスは1つにまとまっており、軍人の士気も高かった。一方、英本国はまだ本腰を入れて海軍を投入していなかった。
 しかし、様々な原因もあっただろうが、最終的にはケベック(1758)そしてモントリオール(1759)が陥落・降伏し、ヌーベルフランスは実質的にこの時点で消滅した。 そして1763年のパリ条約により、カナダはイギリス領となる。

フランス領時代におけるインディアンの位置付け

まだヨーロッパ系民族が少数であった1840年代以前は、インディアンの勢力は無視できないものであった。 ヨーロッパ諸国はインディアンの部族(多数ある)を味方につけつつ、北米における覇権を争っていた。

この同盟関係は、軍事力と経済関係、双方のバランスの上に成り立っていた。 すなわち、次のようなことである。

英仏両国にとって北米を軍事的に支配するにはインディアンの協力が不可欠であった。軍事的に一定の地域に影響力をおよぼすことによって毛皮交易を独占することが可能となる。同時に、インディアンとしてもヨーロッパからの最新式の銃や火薬を確保しない限り、他の部族との抗争に敗れることになる。したがって、彼らの毛皮交易に関するノウハウをヨーロッパ人に提供することで彼らの軍事能力の絶えざる革新を行なっていた。この意味で、ヨーロッパからの白人と北米大陸のインディアンの同盟は相互に利益を得ていたわけである。[5, p182]

だが、1840年から50年にかけてこのバランスが崩れた。次のようなことである。

しかし、交通手段やコミュニケーションが発達し、インディアンの軍事力が相対的に無力化するころになると、彼らは無用な存在として、一種の保護民と化する。アメリカ、カナダを通してだいたい1840年代から50年代にかけて政策転換がおきる。(中略)軍事、経済同盟としての役割を失ったインディアンは、キリスト教化、農民化という枠内で彼らの伝統的な生活様式の転換を迫られる。(中略)無力な保護民と化したインディアンは北米史からその存在を消してゆく。[5, p182]

こうして、インディアンはその存在が一時的に忘れ去られたものとなってしまう。

インディアンはアメリカとカナダ両国に渡って存在していたが、彼らに対する国策は、その国柄をよく表したものとなっている。以下を掲載したい。

インディアン政策の米加比較 [5, p185]
 インディアンに対し、基本的にはカナダの方がアメリカよりずっとマイルドな政策をとってきたのは事実である。アメリカ騎兵隊による軍事的衝突や虐殺という血なまぐさい事件はカナダでは起こっていない。(中略)歴史学者のW・JエクールズはヌーベルFランすとアングロ・アメリカ系植民地の質のちがいに注目している。つまり、ヌーベルフランスのころはセントローレンス川を中心として、その植民地が先住民との交易に重点をおき、白人が土地を占有して開拓する必要のないフロンティアであったとしている。他方、アメリカでは先住民との交易は二次的、三次的な意味しかなく、先住民を人為的に移動させて入植をしていかざるを得ないフロンティアであると見ている。したがってヌーベルフランスでは強力・友好関係が、アメリカでは力による政策が必要とされたわけである。
 しかしながら、カナダ西部の場合はもはや毛皮交易は不必要となってくるので、土地をめぐって、白人が強制力で先住民をおしやることも可能であったはずである。ここに、カナダとアメリカの対先住民政策の根本的な相違が出てくると見てよいであろう(ルイ・リエル事件だけはその例外として指摘されよう)。

と、あるように、アメリカとカナダで環境が類似した筈のカナダ西部においてさえ、アメリカのような血なまぐさい政策が取られていないのである。 このようなところにも、カナダの国柄が表れていると言えよう。

 

イギリス領時代

1763年、7年戦争を終わらせたパリ講和条約によって、ヨーロッパおよびその他の世界における英仏の対立に終止符がつけられることとなった。 カナダにおいては既に1760年にはイギリスの勢力下にあったため、既成の事実を認めた形の条約締結となった。

フランス植民地は終わりを告げられたが、フランス系カナダ人は残った。特にケベックではそうであった。尚、当時のケベックは現ケベック州とオンタリオ州に相当する。(この後、ケベックが2つに分裂する。)

ケベック法の制定

ケベックは北米英国領において特殊な土地であった。人口6万5千人のこの土地には、英語を話す人はほとんどいなかった。 250万の人口をもつ北米英国領において、この土地の特殊さは現代までも引き継いでいる。

英帝国は、最初、ケベックを言語的・文化的・制度的に英国圏に併合しようとした。 だが、寒い土地であるが故に移民は増えず、文化的にもフランス系カナダ人は現状維持を願った。 フランス系カナダ人の諸権利の守護者として働くこととなったのが、植民地総督ジェイムズ=マレーである(1764年)。 彼は、次のように考えた。

なじみのないイギリス法を大規模にフランス植民地に導入することは広汎な混乱を引き起こすだろう。議会に関しては、カソリック教徒に政治的権利を与えない既存のイギリス法規は、ケベックをごく小規模のプロテスタント少数派の手にゆだねることになろう。[6, p111]

この後、マレーの後継者であるガイ=カールトン(のちのサー=ガイ)も、似たような路線を考えた。彼はイギリス植民地が無秩序になる様を見て、秩序あるフランス系カナダ人社会を賛美するようになる。 そのようなこともあり、次第にケベックを、アメリカのような暴力社会に対する貴重な砦として考えるようになった。

そして、ケベックを統合しようとするイギリス商務省に対し、次のような主張を行う。

彼の主張するところによればカナダはフランス人のものであり、今後もずっとそうなるはずであった。必要なものはイギリスの諸制度ではなく、英帝国に対するカナダ人の忠誠をしっかりつなぎとめるために、現存するフランスの諸制度を十分に認めることである。[6, p112]

カナダ人にとっての本来の指導者は荘園主や聖職者である。 よって、彼らを味方にし、ケベックをアメリカに対する防護壁として成り立たせよう、という議論が交わされた。

そしてその結果ケベック法が制定され、フランス的な封建主義とローマ=カソリックを信仰する自由、荘園制度の補償がなされた。それは次のようなものである。

権威主義的統治が完全に受け入れられ、政府は総督と、フランス人とイギリス人の双方による任命評議会から成り、議会に関する規定はなかった。陪審による裁判を備えたイギリス刑法が確立されたが、フランス民法も継続された。ローマ=カソリックを信仰する自由とともに、荘園制度も保障された。教会はこれまでも礼拝を自由におこなうことを許されており、新しい司祭の任命や十分の一税の徴集さえ認められていた。しかもいまや十分の一税は法によって公認され、施行されることになったのである。ケベックのカソリック教会は、国家の後援する組織体となった。[6, p113]

ケベック法の制定にあたっては、一部においては圧政の負担であったりとか、植民地の自由の抑圧であるとも捉えられたりしたようだ。 だが、最も重要な点は、これによりケベックがカナダにおいても特殊な土地となり続けたという点にある。 この点は、現代までも続くケベックの特徴となっている。

アメリカ独立戦争による2つの影響

  その1: 後にカナダとなる領域がアメリカ合衆国と切り離されて誕生したこと。
  その2: 4万人にものぼる王党派(ローヤリスト)のカナダへの移住によってイギリス系人口が激増したこと。

1775年に勃発したアメリカ独立革命はアメリカ合衆国を創出したのみでなく、後にカナダとなる国も誕生させることとなる。

独立戦争において、ケベックは大陸会議からたび重なる働きかけを受けつつもそれを拒んだ。(大陸会議とはアメリカ独立革命における植民地間の中央組織のことである。) それは、英政府への協力という形ではなく、フランス系カナダ人としての自立自尊に根ざしたものだった。

独立戦争の火はカナダにも及び、防御に弱いモントリオールは陥落したが、ケベックは守り通し、最終的にはイギリス艦隊の襲来によりアメリカ人は退却することとなる。 この戦乱により、ケベックの反アメリカ感情が高くなった。 これ以後、以下のような状況が生じることとなる。

 侵略を受けた後の住民はアメリカ側につかないことをもっとつよく決意し、また聖職者や荘園主はケベック法という彼らに利益の多い法律のおかげで、そういう感情を強化するようにつとめた。それ以来、一種の逆説が生じた。つまりケベックがある程度イギリスのものとなったというのは、それがフランス化していたからであり、それはすなわち、フランス系イギリス人がアメリカ人となることを望まなかったからであった。フランス系カナダ人のこの感情は革命の進行中ずっとつづき、戦いが済んだのちも長く持続された。
 1783年講和がもたらされた時、英帝国は十三植民地を失ってしまっていたけれどもケベックとノヴァスコシアはしっかりと確保し、ニューファンドランドやルパーツ=ランドとともに、それらの中に北アメリカ大陸における新しい帝国の基盤を築いたのであった。[6, P118]

独立戦争当時、アメリカにいた王党派の多くは王党派アメリカ人部隊を組織し、イギリスと共に戦った。 だが、アメリカ革命成功後は敗戦側である彼らに対する迫害と掠奪、財産の没収などと言った”法律を無視した状況”が発生することとなる。敗戦したイギリスはこれらの人々を保護する力を持ち得なかった。 その耐えがたい状況の下で、王党派は次第にアメリカを離れることとなる。

独立戦争以前のアメリカ人口のうち、約3分の1が王党派であったと言われており、王党派の3分の1がイギリス本国へ戻り、他のものは英領西インド諸島へ向かい、約4万人ばかりがカナダに移住したと言われている。 王党派は後にアッパー・カナダとなる地方や、その他の地域にも広く移住した。王党派の移住に伴い、先住民や黒人奴隷も移り住んで来たが、時が経つにつれて黒人奴隷の多くはイギリス政府の斡旋によりアフリカのシェラ・レオネへ移住することとなる。

イギリス系である王党派の到来によって、現代のカナダが抱えているイギリス系カナダ人とフランス系カナダ人の共存という現象を生み出した。王党派の人々は商人、農民を主体とするいわゆる中産階級であり、革命よりも既存の体制を望んだ人々であった。 これが、現在のカナダの穏健性、保守性の1つの根源ともなっている。

現在、たやすく語られがちな王党派の物語は、悲痛な面を確実に持っている。 以下は、ノヴァスコシアに移住した王党派の姿を示すものである。

ノヴァスコシア王党派はだいたい、アメリカ植民地でも定住の歴史の長い沿岸地域からやってきた人びとで、教育があり、かつては金持ちだったものが大部分を占めていた。いまや彼らは、それまで経験のないフロンティアの植民地へ、あるいは多くが誰もいない森へ突然ほうり出された。土地、糧食、道具の付与といった形での政府による援助にもかかわらず、しばしば彼らの中に厳しい苦しみや打ち沈んだ絶望感がみなぎっていたことは疑いのないことであった。あるものは諦めて合衆国へまいもどったり、イギリスへ移った。あるものは政府における猟官運動を志し、二流の官職の中で見すぼらしい、非現実的なまでの俗物根性をみせていた。他のものは正直のところ没落してしまった。今日王党派の物語はあまりにたやすく語られ、その中には多くの非難が見いだされるが、次のような確心的事実だけはたしかである。すなわち彼らの大部分は苦難の時代を戦い抜き、きびしい北方の土地の仮借なき挑戦に直面し、ノヴァスコシアにとって新しい時代を打ち立てたのであった。[6, P121]


ケベックの分割と立憲条例(カナダ法)による代議制議会の始まり

王党派はケベックのフランス語地域には移住しなかった。彼らはフランスの荘園制度ではなく、昔のアメリカで行っていたような形で農場を所有した。 この結果、91年に制定された立憲条例(カナダ法)によりケベックは2分されて、フランス系カナダ人による東部のロワー・カナダ(現在のケベック)とイギリス系カナダ人による西部のアッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)の2つの植民地が成立することとなる。

同条例により、ロワー・カナダ、アッパー・カナダの両カナダに代議制議会が導入されることとなる。又、ケベック法の適用はロワー・カナダに限定された。 この条例はカナダにとって新しい出発を告げるものであった。

以下の総括をここに引用したい。

英領北アメリカの植民地は明確な形態をとり始め、革命の時代は終わりに近づきつつあった。しかしアメリカ革命は合衆国にとってと同様、カナダにとっても重要であった。事実アメリカ革命は大陸を分けることによってアメリカ共和国を創設するとともに、近代カナダをも創設したのであった。その上、革命の際王党派となった人びとは、イギリスのものとしてとどまったこれらの植民地に、心の底からイギリス人でありたいと望む人びとをもたらした。フランス人だけが優勢するのではないカナダを王党派が建設し始めた。近代の英語圏カナダはまったくのところ王党派に、また王党派を追い出した革命に、さかのぼれるのである。1763年の古い問題、どうやってカナダを完全に英帝国の一部とするかという問題に、アメリカ革命はある意味で真の解答を出したのであった。[6, P125]


コンフェデレーションへの道

”コンフェデレーション”とは、後にカナダとなる土地にあった幾つかの植民地がイギリスの支配を脱し、”カナダ”として連合して行く動きを言う。

 まず、1867年に発効した英領北アメリカ法によりノヴァスコシア、ニューブランズウィック、そして連合カナダ植民地が解体して誕生したオンタリオとケベックの4州からなる最初のカナダ自治領が誕生する。 その後はマニトバ州が1870年、ブリティッショ・コロンビア州が71年、プリンスエドワード・アイランド州が73年、アルバータとサスカチェワンの両州が1905年、ニューファンドランド州が1949年に参加し、この時点でもってコンフェデレーションは終了する。 (実際には州境の変更や分割併合等があるのでこの年月は大体のものである。)

以下、このコンフェデレーションの流れを時系列にひとつひとつ見てゆくことにしたい。


植民地改革運動の高まり

経済と共に政治も成熟し、1820年代以後はかつての植民地支配から脱するため或いは経済・安全保障上などその他の理由により政治の民主化要求が各地で高まっていった。 結果、1837年のアッパーおよびロアーカナダにおいて暴動が頻発するのだが、実際のところ、多くの人々はこのような暴力革命ではなく、穏健な政治改革の道を選んでおり、次第に暴動は支持を集めることができなくなってゆく。 やがて、穏健な話し合いによるコンフェデレーションの道が探られることとなるのだが、このようなところにもカナダの性質が現れていると言えよう。

植民地改革を後押しする、イギリス政府の「ダラム報告」

カナダにおける暴動の報を受けたイギリス政府は、当時の最先端をいく自由主義者であり改革者でもあるダラム卿ジョン・G・ラムトンを英領北アメリカ総督につけ、事態の改善をはかった。1838年に5ヶ月をかけてアッパー・ロワー両カナダを調査した彼は、イギリス帰国後に「ダラム報告」を書き上げた。

以下は、この報告の概要である。

彼はこの中で、ロワーカナダの反乱の性格を民族抗争であるとみて、フランス系カナダ人の吸収を前提とする両カナダの併合、外交・通商に関する規制と政治形態の変革と土地付与を除くすべての事柄を植民地政府に委任すべきこと、植民地に責任政府を樹立すること、等の勧告を行った。この最後の点については、アッパーカナダの改革穏健派ロバート・ボルドウィンの進言によるところが大きかったとされる。[5, P68]

彼の《報告》はイギリス政治史における自由主義の真髄を示した古典として名高いが,フランス系カナダ人の怨讐の的となった。[3]

この報告をもってアッパー、ロワー両カナダの統合も勧告され、ここに「連合カナダ植民地」が誕生する。 尚、この連合カナダ植民地は約30年後に行われるカナダ自治領成立(1867)に伴いオンタリオ及びケベックの2州に分割されることとなる。

4州からなる最初のカナダ自治領誕生

1864年、コンフェデレーション支持の感情が全英領北アメリカにわたって最高潮に達した。このような雰囲気の中、1864年のケベック会議により連邦結成の基礎となる72ヶ条の決議がわずか2週間で採択され、ここに集まっていた5植民地の代表はそれぞれの植民地会議でこの決議を検討することとなった。 この決議がそれぞれの会議で受諾されることによりコンフェデレーションが実現されて行くのだ。

コンフェデレーションの最初の成果である最初の自治領誕生であるが、最初に要項がケベック会議において決議されてからその実現に至るまで、実に3年の月日を要した。 時間を要した原因となったのは、各植民地での事情の違いとコンフェデレーションそのものに対する批判である。特に前者の影響が大きく、後者は流れを変えるには不十分であった。

連合カナダ植民地はケベック決議の生みの親であり、比較的容易に決議された。決議が難航したのは沿岸地方の州であった。プリンスエドワード島の目は大西洋とその先にあるイギリスに向いており、ケベック決議をきっぱりと拒否した。ニューファンドランドも傍観者に近かった。これらの州はケベックの言う”鉄道によってカナダと繋がることによる利益”には魅力を感じなかったのだ。 一方、ノヴァスコシアとニューブランズウィックにおいても当初は反対の声が大きかったが、イギリス政府が積極的に支援を行ったことやニューブランズウィックにおいてはアメリカに対する安全保証上の理由もあってコンフェデレーションの推進が後押しされた。 イギリスがコンフェデレーションを後押ししたのはカナダの自衛力の弱さという防衛問題であり、イギリスの負担を軽くする為でもあった。 結果、1866年にロンドンにおいてロンドン会議、或いはウェストミンスター会議と呼ばれる会議が起され、そこに3植民地の代表が集まり、ケベック決議に多少の変更を加えたものが採択され、それが1867年にイギリス議会を通過することにより、条例が発効された。

この条約で特筆すべきことは、ここで初めて「カナダ自治領」の名が採用されたことである。”自治領”を示す言葉”ドミニオン”を指して、ニューブランズウィックの代表ティリーは詩篇第72篇第8節から次のように表現したと言われている。

彼は海から海まで治め、川から地の果てまで治めるように [5, p265]

”海から海へ”は新しい標語としても用いられた。  この条例により4つの州が新しい連邦内に設けられた。ノヴァスコシア・ニューブランズウィック・オンタリオ・ケベック(かつてのアッパーカナダとロワーカナダ)である。 

コンフェデレーションはこの後も続き、1949年に終わりを告げることとなる。 その第一歩としての歩み出しがここにあった。 この一歩により、英領北アメリカ植民地が終わり、カナダ自治の歴史が始まったのである。 それは1867年のことであった。


”自主権”獲得による正式な国家の成立

時は経ち1926年、カナダは”自主権”を獲得し、完全なる独立国家としての歩みを始める。

国家成立の要素である”領土・人民・主権”の最後の要素である”自主権”を獲得するまでは長い道のりであった。 以下は、その時代の様子を簡略に示したものである。

1920年代には,コンフェデレーション以来のカナダ国民の願望とキングの対英政策が効を奏し,また国際情勢の変化もあずかって,26年のイギリス帝国会議のバルフォア報告(1931年のウェストミンスター憲章で立法化)で待望の外交上の自主権が獲得された。外交上も主権を得たカナダは早速アメリカ合衆国,フランス,日本に公使館を設立した。[3]

カナダはこのようにして、近代国家として歩み出していった。 その歩みは、日本と重なる部分がある。


日本とカナダ

日本とカナダは、ほぼ同時期に近代国家への歩みを始めている。1867年、カナダが自治領としてイギリスから独立をとげた翌年、日本では明治維新によって新政府が誕生する。

両国の交流は、カナダ人宣教師の渡日と、日本からカナダへの移民によって始まった。

日本からの移民が本格的に始まるのは19世紀末、バンクーバー港が完成しバンクーバー=横浜間に定期航路が開かれた1887年頃からである。初期の移民は出稼ぎ目的の人が多く定住の意識をあまり持たなかった。又、90%以上が西海岸であるブリティッシュ・コロンビア(BC)州に集中していた。

1900年頃から日本人移民が急増し、その結果アジア人排斥の動きが高まることとなった。 1907年9月にはバンクーバー暴動が勃発する。これにより、今までBC州の排日法案に反対してきた連邦政府も日本人移民の入国制限を認めることとなる。その結果、1908年にルミュー協約が締結され、移民制限が課せられるようになる。 この後、日本人移民は「定住」を目的とする時代に入る。 だが、それに合わせて、今まで日本人移民に向けられていた「出稼ぎ」への批判が「定住」への批判に変わってゆくこととなる。 1911年のカナダ移民法改正により制限は拡大した。「白人のブリティッシュ・コロンビア」という考えが根強いものとなっていった。

以下は、この頃における日本とカナダの国交の流れである。[1, p268]

 1929(昭和4)年、カナダは日本と正式の国交を樹立する。1926年英帝国の自治領として、宗主国イギリスと対等な外交自主権を獲得したカナダは、アメリカ(ワシントン)、フランス(パリ)に次いで日本(東京)へ外交使節を派遣することとし、28年1月、公使交換に合意する。カナダが、歴史的に関係の深いアメリカ、フランスとともに、極東の国日本へ外交使節を派遣した動機は、第一にアジア貿易とくに対日貿易の拡大をはかること、第二に、日本人移民問題の解決、そして第三に、アジアの「大国」化した日本との協調関係維持の必要性などであった。
(中略)
 日加関係は1930年代にはいり、まず、世界大恐慌を契機として貿易紛争が両国内に発生する。さらに、満州事変の勃発にはじまる日本の中国大陸への侵略行動が日加感に摩擦をもたらすこととなる。

この後、1937年の日中戦争により排日感情は急激に高まることとなる。1941年12月7日に真珠湾攻撃が行われると、カナダは即刻、対日宣戦を布告した。そして、アメリカと同様の強制収容所を用意し、日系人を収容することとなる。 日系移民は7年という長い間、悪夢の時を過ごすこととなった。 一部、カナダやアメリカの為に戦うことを決意した日系人もいたが、多くは財産・土地を失うこととなった。

1949年、日系人はBC州への帰還を許された。そして、1950年代は再建の時代となる。1970年代以降は文化に対する見直しがなされ、平和な時代へと移って行った。そして1988年9月、アメリカが日系強制収容所に対し謝罪と補償を決定したのとほぼ同時期に、カナダも戦時中の日系人に対し、謝罪と補償を決定することとなる。

現在は戦前のように日系人が問題になるようなことはなく、ましてや、BC州の歴史を動かすようなものではなくなっている。 むしろ、中国そして香港からの移民がBC州社会に変化を与えている。


まとめ

 近年でこそアメリカ化が問題視されているものの、カナダはその誇りと尊厳、争いを好まない文化性によりアメリカ合衆国とは一線を画した文明を築き上げてきた。 かつては植民地争いの現場となり、先住民の土地が奪われる状況も多々あったが、誇り高い民族の集まっているカナダの基本は先住民族との協力にあり、アメリカのような血なまぐさい侵略は少なかった。 ケベックに代表されるフランス系カナダ人と、その他のイギリス系カナダ人、そしてそれに留まらない多くの民族が混在して暮らしているカナダの姿は、良くも悪くも”保守的なカナダ”という言葉がよく似合う国であると言えよう。 又、”自由よりも平等、競争よりも協調を好み、機会の平等よりも結果の平等を好む”というカナダ人像は、カナダの歴史が始まった当初からの歴史の蓄積により、必然のものとして積み重ねられていったものであると言える。 日本とカナダとは親密な関係を続けており、これからもそれは続くであろう。(平成16年2月22日修正)


基礎データ

以下は、カナダの基礎データである。

正式名称 カナダ Canada
カナダの国旗


カナダの地図
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面積 997万610km2
気候 ほとんどの北極海諸島と大陸部の一部は寒帯に、それ以外の地域はおおむね亜寒帯。
    大西洋沿岸諸州では、海洋の影響で冬の寒さと夏の暑さがやわらげられるとともに、霧と降水が多い。西海岸沿いでは、暖流としめった海風の影響により、一年を通じて温暖湿潤で、降水量が多い。[4]
人口
3190万2268人   (2002年)
2978万人   (1996年)
2779万600人   (1990年)
人口密度 3.2人/km2 (2002年)
    全人口の77%(2000年推計)が都市居住者で、人口の約4分の3がアメリカとの国境沿いの南部地域に住んでいる。人口の約62%がケベック州とオンタリオ州に集中。
民族構成
イギリス系 35%
フランス系 25%
その他のヨーロッパ系 20%
アメリカ先住民 (イヌイットを含む) 3%
その他 17%
    アジア系民族は全体の1.3%、日系カナダ人は0.2%。 日系人の居住先としてはオンタリオ(42%),ブリティッシュ・コロンビア(37%),アルバータ(12%)の3州に集中。
首都 オタワ Ottawa (日本との時差=−14時間。時差は地域によって変化。)
主要言語 英語(主に西側),フランス語(主に東側)
    両方使える人は約15%。英語だけの人とフランス語だけの人の割合は約4対1。
通貨 カナダ・ドル Canadian Dollar(Can$)  1 Can$ = 100 セント
宗教

ローマ・カトリック

45.2%
カナダ合同教会 11.5%
英国国教会 8.1%
その他のプロテスタント 7.9%
その他(含:無宗教) 27.3%
政治制度 エリザベス女王を元首とする連邦制の立憲君主国家。
    形式的に政治権力のすべての執行権は女王に帰属するが,〈君臨すれども統治せず〉というイギリスの憲法慣習がカナダでも踏襲される。エリザベス女王はイギリス女王であるが,カナダの立憲制度上はカナダの女王も兼任している。[3]
兵力 5万6800人
   
ヨーロッパとの連携: NATO(北大西洋条約機構)に所属。
アメリカとの連携: 共同でNORAD(北米航空宇宙防衛軍)を構成。
世界への貢献: 国際連合の平和維持軍に参加。

北アメリカ大陸の北半部を占める広大な国で,面積はロシア連邦に次いで世界第2位。立憲君主制の連邦国家で,10州 province と2準州(テリトリー territory)から成る。国名は〈村〉を意味するイロコイ・インディアンの言葉に由来するといわれ,日本では〈加奈陀〉あるいは略して〈加〉の字をあてることがある。国の象徴はビーバーとメープルの葉。[3]

平成16年2月16日19時0分 記
平成16年2月22日 "まとめ"修正

■ 参考 ■
1 もっと知りたいカナダ (綾部恒雄 著) 弘文堂
2 世界現代史 31 カナダ現代史 (大原裕子 著) 山川出版社
3 世界大百科事典(平凡社)
4 エンカルタ総合大百科2003(マイクロソフト)
5 概説カナダ史 (大原裕子 馬場伸也 編)有斐社
6 カナダの歴史 −大地・民族・国家− (J=M=S=ケアレス 著) 山川出版社
7 カナダ遊妓楼に降る雪は (工藤美代子 著)晶文社
8 黄色い兵士達 − 第一次大戦日系カナダ義勇兵の記録 (工藤美代子 著) 恒文社
9 カナダの地域と民族 −歴史的アプローチ− (D・フランシス, 木村和男 編) 同文館出版

 

 

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