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この後、フランスは国内の内乱のため探検が中断され、本格的な植民活動が再開されるのはブルボン王朝が成立し、国内の秩序が回復される17世紀に入ってからのことである。
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| その1: | 後にカナダとなる領域がアメリカ合衆国と切り離されて誕生したこと。 | |
| その2: | 4万人にものぼる王党派(ローヤリスト)のカナダへの移住によってイギリス系人口が激増したこと。 |
1775年に勃発したアメリカ独立革命はアメリカ合衆国を創出したのみでなく、後にカナダとなる国も誕生させることとなる。
独立戦争において、ケベックは大陸会議からたび重なる働きかけを受けつつもそれを拒んだ。(大陸会議とはアメリカ独立革命における植民地間の中央組織のことである。) それは、英政府への協力という形ではなく、フランス系カナダ人としての自立自尊に根ざしたものだった。
独立戦争の火はカナダにも及び、防御に弱いモントリオールは陥落したが、ケベックは守り通し、最終的にはイギリス艦隊の襲来によりアメリカ人は退却することとなる。 この戦乱により、ケベックの反アメリカ感情が高くなった。 これ以後、以下のような状況が生じることとなる。
侵略を受けた後の住民はアメリカ側につかないことをもっとつよく決意し、また聖職者や荘園主はケベック法という彼らに利益の多い法律のおかげで、そういう感情を強化するようにつとめた。それ以来、一種の逆説が生じた。つまりケベックがある程度イギリスのものとなったというのは、それがフランス化していたからであり、それはすなわち、フランス系イギリス人がアメリカ人となることを望まなかったからであった。フランス系カナダ人のこの感情は革命の進行中ずっとつづき、戦いが済んだのちも長く持続された。
1783年講和がもたらされた時、英帝国は十三植民地を失ってしまっていたけれどもケベックとノヴァスコシアはしっかりと確保し、ニューファンドランドやルパーツ=ランドとともに、それらの中に北アメリカ大陸における新しい帝国の基盤を築いたのであった。[6, P118]
独立戦争当時、アメリカにいた王党派の多くは王党派アメリカ人部隊を組織し、イギリスと共に戦った。 だが、アメリカ革命成功後は敗戦側である彼らに対する迫害と掠奪、財産の没収などと言った”法律を無視した状況”が発生することとなる。敗戦したイギリスはこれらの人々を保護する力を持ち得なかった。 その耐えがたい状況の下で、王党派は次第にアメリカを離れることとなる。
独立戦争以前のアメリカ人口のうち、約3分の1が王党派であったと言われており、王党派の3分の1がイギリス本国へ戻り、他のものは英領西インド諸島へ向かい、約4万人ばかりがカナダに移住したと言われている。 王党派は後にアッパー・カナダとなる地方や、その他の地域にも広く移住した。王党派の移住に伴い、先住民や黒人奴隷も移り住んで来たが、時が経つにつれて黒人奴隷の多くはイギリス政府の斡旋によりアフリカのシェラ・レオネへ移住することとなる。
イギリス系である王党派の到来によって、現代のカナダが抱えているイギリス系カナダ人とフランス系カナダ人の共存という現象を生み出した。王党派の人々は商人、農民を主体とするいわゆる中産階級であり、革命よりも既存の体制を望んだ人々であった。 これが、現在のカナダの穏健性、保守性の1つの根源ともなっている。
現在、たやすく語られがちな王党派の物語は、悲痛な面を確実に持っている。 以下は、ノヴァスコシアに移住した王党派の姿を示すものである。
ノヴァスコシア王党派はだいたい、アメリカ植民地でも定住の歴史の長い沿岸地域からやってきた人びとで、教育があり、かつては金持ちだったものが大部分を占めていた。いまや彼らは、それまで経験のないフロンティアの植民地へ、あるいは多くが誰もいない森へ突然ほうり出された。土地、糧食、道具の付与といった形での政府による援助にもかかわらず、しばしば彼らの中に厳しい苦しみや打ち沈んだ絶望感がみなぎっていたことは疑いのないことであった。あるものは諦めて合衆国へまいもどったり、イギリスへ移った。あるものは政府における猟官運動を志し、二流の官職の中で見すぼらしい、非現実的なまでの俗物根性をみせていた。他のものは正直のところ没落してしまった。今日王党派の物語はあまりにたやすく語られ、その中には多くの非難が見いだされるが、次のような確心的事実だけはたしかである。すなわち彼らの大部分は苦難の時代を戦い抜き、きびしい北方の土地の仮借なき挑戦に直面し、ノヴァスコシアにとって新しい時代を打ち立てたのであった。[6, P121]
王党派はケベックのフランス語地域には移住しなかった。彼らはフランスの荘園制度ではなく、昔のアメリカで行っていたような形で農場を所有した。 この結果、91年に制定された立憲条例(カナダ法)によりケベックは2分されて、フランス系カナダ人による東部のロワー・カナダ(現在のケベック)とイギリス系カナダ人による西部のアッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)の2つの植民地が成立することとなる。
同条例により、ロワー・カナダ、アッパー・カナダの両カナダに代議制議会が導入されることとなる。又、ケベック法の適用はロワー・カナダに限定された。 この条例はカナダにとって新しい出発を告げるものであった。
以下の総括をここに引用したい。
英領北アメリカの植民地は明確な形態をとり始め、革命の時代は終わりに近づきつつあった。しかしアメリカ革命は合衆国にとってと同様、カナダにとっても重要であった。事実アメリカ革命は大陸を分けることによってアメリカ共和国を創設するとともに、近代カナダをも創設したのであった。その上、革命の際王党派となった人びとは、イギリスのものとしてとどまったこれらの植民地に、心の底からイギリス人でありたいと望む人びとをもたらした。フランス人だけが優勢するのではないカナダを王党派が建設し始めた。近代の英語圏カナダはまったくのところ王党派に、また王党派を追い出した革命に、さかのぼれるのである。1763年の古い問題、どうやってカナダを完全に英帝国の一部とするかという問題に、アメリカ革命はある意味で真の解答を出したのであった。[6, P125]
”コンフェデレーション”とは、後にカナダとなる土地にあった幾つかの植民地がイギリスの支配を脱し、”カナダ”として連合して行く動きを言う。
まず、1867年に発効した英領北アメリカ法によりノヴァスコシア、ニューブランズウィック、そして連合カナダ植民地が解体して誕生したオンタリオとケベックの4州からなる最初のカナダ自治領が誕生する。 その後はマニトバ州が1870年、ブリティッショ・コロンビア州が71年、プリンスエドワード・アイランド州が73年、アルバータとサスカチェワンの両州が1905年、ニューファンドランド州が1949年に参加し、この時点でもってコンフェデレーションは終了する。 (実際には州境の変更や分割併合等があるのでこの年月は大体のものである。)
以下、このコンフェデレーションの流れを時系列にひとつひとつ見てゆくことにしたい。
経済と共に政治も成熟し、1820年代以後はかつての植民地支配から脱するため或いは経済・安全保障上などその他の理由により政治の民主化要求が各地で高まっていった。 結果、1837年のアッパーおよびロアーカナダにおいて暴動が頻発するのだが、実際のところ、多くの人々はこのような暴力革命ではなく、穏健な政治改革の道を選んでおり、次第に暴動は支持を集めることができなくなってゆく。 やがて、穏健な話し合いによるコンフェデレーションの道が探られることとなるのだが、このようなところにもカナダの性質が現れていると言えよう。
カナダにおける暴動の報を受けたイギリス政府は、当時の最先端をいく自由主義者であり改革者でもあるダラム卿ジョン・G・ラムトンを英領北アメリカ総督につけ、事態の改善をはかった。1838年に5ヶ月をかけてアッパー・ロワー両カナダを調査した彼は、イギリス帰国後に「ダラム報告」を書き上げた。
以下は、この報告の概要である。
彼はこの中で、ロワーカナダの反乱の性格を民族抗争であるとみて、フランス系カナダ人の吸収を前提とする両カナダの併合、外交・通商に関する規制と政治形態の変革と土地付与を除くすべての事柄を植民地政府に委任すべきこと、植民地に責任政府を樹立すること、等の勧告を行った。この最後の点については、アッパーカナダの改革穏健派ロバート・ボルドウィンの進言によるところが大きかったとされる。[5, P68]
彼の《報告》はイギリス政治史における自由主義の真髄を示した古典として名高いが,フランス系カナダ人の怨讐の的となった。[3]
この報告をもってアッパー、ロワー両カナダの統合も勧告され、ここに「連合カナダ植民地」が誕生する。 尚、この連合カナダ植民地は約30年後に行われるカナダ自治領成立(1867)に伴いオンタリオ及びケベックの2州に分割されることとなる。
1864年、コンフェデレーション支持の感情が全英領北アメリカにわたって最高潮に達した。このような雰囲気の中、1864年のケベック会議により連邦結成の基礎となる72ヶ条の決議がわずか2週間で採択され、ここに集まっていた5植民地の代表はそれぞれの植民地会議でこの決議を検討することとなった。 この決議がそれぞれの会議で受諾されることによりコンフェデレーションが実現されて行くのだ。
コンフェデレーションの最初の成果である最初の自治領誕生であるが、最初に要項がケベック会議において決議されてからその実現に至るまで、実に3年の月日を要した。 時間を要した原因となったのは、各植民地での事情の違いとコンフェデレーションそのものに対する批判である。特に前者の影響が大きく、後者は流れを変えるには不十分であった。
連合カナダ植民地はケベック決議の生みの親であり、比較的容易に決議された。決議が難航したのは沿岸地方の州であった。プリンスエドワード島の目は大西洋とその先にあるイギリスに向いており、ケベック決議をきっぱりと拒否した。ニューファンドランドも傍観者に近かった。これらの州はケベックの言う”鉄道によってカナダと繋がることによる利益”には魅力を感じなかったのだ。 一方、ノヴァスコシアとニューブランズウィックにおいても当初は反対の声が大きかったが、イギリス政府が積極的に支援を行ったことやニューブランズウィックにおいてはアメリカに対する安全保証上の理由もあってコンフェデレーションの推進が後押しされた。 イギリスがコンフェデレーションを後押ししたのはカナダの自衛力の弱さという防衛問題であり、イギリスの負担を軽くする為でもあった。 結果、1866年にロンドンにおいてロンドン会議、或いはウェストミンスター会議と呼ばれる会議が起され、そこに3植民地の代表が集まり、ケベック決議に多少の変更を加えたものが採択され、それが1867年にイギリス議会を通過することにより、条例が発効された。
この条約で特筆すべきことは、ここで初めて「カナダ自治領」の名が採用されたことである。”自治領”を示す言葉”ドミニオン”を指して、ニューブランズウィックの代表ティリーは詩篇第72篇第8節から次のように表現したと言われている。
彼は海から海まで治め、川から地の果てまで治めるように [5, p265]
”海から海へ”は新しい標語としても用いられた。 この条例により4つの州が新しい連邦内に設けられた。ノヴァスコシア・ニューブランズウィック・オンタリオ・ケベック(かつてのアッパーカナダとロワーカナダ)である。
コンフェデレーションはこの後も続き、1949年に終わりを告げることとなる。 その第一歩としての歩み出しがここにあった。 この一歩により、英領北アメリカ植民地が終わり、カナダ自治の歴史が始まったのである。 それは1867年のことであった。
時は経ち1926年、カナダは”自主権”を獲得し、完全なる独立国家としての歩みを始める。
国家成立の要素である”領土・人民・主権”の最後の要素である”自主権”を獲得するまでは長い道のりであった。 以下は、その時代の様子を簡略に示したものである。
1920年代には,コンフェデレーション以来のカナダ国民の願望とキングの対英政策が効を奏し,また国際情勢の変化もあずかって,26年のイギリス帝国会議のバルフォア報告(1931年のウェストミンスター憲章で立法化)で待望の外交上の自主権が獲得された。外交上も主権を得たカナダは早速アメリカ合衆国,フランス,日本に公使館を設立した。[3]
カナダはこのようにして、近代国家として歩み出していった。 その歩みは、日本と重なる部分がある。
日本とカナダは、ほぼ同時期に近代国家への歩みを始めている。1867年、カナダが自治領としてイギリスから独立をとげた翌年、日本では明治維新によって新政府が誕生する。
両国の交流は、カナダ人宣教師の渡日と、日本からカナダへの移民によって始まった。
日本からの移民が本格的に始まるのは19世紀末、バンクーバー港が完成しバンクーバー=横浜間に定期航路が開かれた1887年頃からである。初期の移民は出稼ぎ目的の人が多く定住の意識をあまり持たなかった。又、90%以上が西海岸であるブリティッシュ・コロンビア(BC)州に集中していた。
1900年頃から日本人移民が急増し、その結果アジア人排斥の動きが高まることとなった。 1907年9月にはバンクーバー暴動が勃発する。これにより、今までBC州の排日法案に反対してきた連邦政府も日本人移民の入国制限を認めることとなる。その結果、1908年にルミュー協約が締結され、移民制限が課せられるようになる。 この後、日本人移民は「定住」を目的とする時代に入る。 だが、それに合わせて、今まで日本人移民に向けられていた「出稼ぎ」への批判が「定住」への批判に変わってゆくこととなる。 1911年のカナダ移民法改正により制限は拡大した。「白人のブリティッシュ・コロンビア」という考えが根強いものとなっていった。
以下は、この頃における日本とカナダの国交の流れである。[1, p268]
1929(昭和4)年、カナダは日本と正式の国交を樹立する。1926年英帝国の自治領として、宗主国イギリスと対等な外交自主権を獲得したカナダは、アメリカ(ワシントン)、フランス(パリ)に次いで日本(東京)へ外交使節を派遣することとし、28年1月、公使交換に合意する。カナダが、歴史的に関係の深いアメリカ、フランスとともに、極東の国日本へ外交使節を派遣した動機は、第一にアジア貿易とくに対日貿易の拡大をはかること、第二に、日本人移民問題の解決、そして第三に、アジアの「大国」化した日本との協調関係維持の必要性などであった。
(中略)
日加関係は1930年代にはいり、まず、世界大恐慌を契機として貿易紛争が両国内に発生する。さらに、満州事変の勃発にはじまる日本の中国大陸への侵略行動が日加感に摩擦をもたらすこととなる。
この後、1937年の日中戦争により排日感情は急激に高まることとなる。1941年12月7日に真珠湾攻撃が行われると、カナダは即刻、対日宣戦を布告した。そして、アメリカと同様の強制収容所を用意し、日系人を収容することとなる。 日系移民は7年という長い間、悪夢の時を過ごすこととなった。 一部、カナダやアメリカの為に戦うことを決意した日系人もいたが、多くは財産・土地を失うこととなった。
1949年、日系人はBC州への帰還を許された。そして、1950年代は再建の時代となる。1970年代以降は文化に対する見直しがなされ、平和な時代へと移って行った。そして1988年9月、アメリカが日系強制収容所に対し謝罪と補償を決定したのとほぼ同時期に、カナダも戦時中の日系人に対し、謝罪と補償を決定することとなる。
現在は戦前のように日系人が問題になるようなことはなく、ましてや、BC州の歴史を動かすようなものではなくなっている。 むしろ、中国そして香港からの移民がBC州社会に変化を与えている。
近年でこそアメリカ化が問題視されているものの、カナダはその誇りと尊厳、争いを好まない文化性によりアメリカ合衆国とは一線を画した文明を築き上げてきた。 かつては植民地争いの現場となり、先住民の土地が奪われる状況も多々あったが、誇り高い民族の集まっているカナダの基本は先住民族との協力にあり、アメリカのような血なまぐさい侵略は少なかった。 ケベックに代表されるフランス系カナダ人と、その他のイギリス系カナダ人、そしてそれに留まらない多くの民族が混在して暮らしているカナダの姿は、良くも悪くも”保守的なカナダ”という言葉がよく似合う国であると言えよう。 又、”自由よりも平等、競争よりも協調を好み、機会の平等よりも結果の平等を好む”というカナダ人像は、カナダの歴史が始まった当初からの歴史の蓄積により、必然のものとして積み重ねられていったものであると言える。 日本とカナダとは親密な関係を続けており、これからもそれは続くであろう。(平成16年2月22日修正)
以下は、カナダの基礎データである。
平成16年2月16日19時0分 記
平成16年2月22日 "まとめ"修正
■ 参考 ■
1 もっと知りたいカナダ (綾部恒雄 著) 弘文堂
2 世界現代史
31 カナダ現代史 (大原裕子 著) 山川出版社
3 世界大百科事典(平凡社)
4 エンカルタ総合大百科2003(マイクロソフト)
5 概説カナダ史 (大原裕子
馬場伸也 編)有斐社
6 カナダの歴史 −大地・民族・国家−
(J=M=S=ケアレス 著) 山川出版社
7 カナダ遊妓楼に降る雪は (工藤美代子 著)晶文社
8 黄色い兵士達
− 第一次大戦日系カナダ義勇兵の記録 (工藤美代子
著) 恒文社
9 カナダの地域と民族 −歴史的アプローチ− (D・フランシス,
木村和男 編) 同文館出版
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