創造性とはなにか
人によって定義が異なり多種多様であるが、それは例えば以下のようなものである。
創造性とは、新しい価値あるもの、またはアイディアを創り出す能力すなわち想像力、およびそれを基礎づける人格特性すなわち創造的人格である。[2,
p3]
この定義にある”新しい”の意味は”社会的・文化的意味”と”個人的意味”とに分けられ、前者は主に大人の評価、後者は主に子供の評価に対して用いられる。 一般的に”創造性”と言われるときは社会的価値、つまり前者の意味においてのみ創造的か否かが判断される。
近年の創造性の研究はその”結果”よりも”過程”として重視されている。 ”創造性”を考える上での判断基準としては”個人にとって価値ある新しさ”というものが立てられており、それは、”個人的な創造性と社会的な創造性には連続性がある”、という前提にたっている。 ここでは、一般的に用いられている社会的価値だけではなく、個人的な創造性も”一体”として、連続性のあるものとして捉えられているのだ。
創造性の思想の基礎としては、以下の2つが大きなものを占めている。
・想像力
・直観
そして、創造といっても、過去の経験や文化が蓄積された伝統の上に基づいて行われているのである。 又、評価をする際には新しいものの芽を潰さないようなやり方を考えて行かねばならない。
一方、近代日本に巣食っているマルクス風思想、”新しいものなど何もない。全て既存のものの組み合わせ。”という視点は、物事を”冷ややか”にし、温かさや人々の動き・思い・美しさを失わせるものである。それは即刻破り捨て、人間の温かみがこもった上のような思想を取り戻すべきなのである。
禅の悟りとはなにか
悟りについて、とある著者は言う。
悟りは、概念的には十分にとらえることはできないものである。しかし、敢えて行おうとすれば、悟りとは冷暖自知といって、実際に水にふれ、火にふれて、その冷暖の事実を自らはっきりと体験的につかむことであるといえよう。[1,
p94]
ここのポイントは、以下であると言えよう。
- 禅の悟りとは、概念的によりは、体験的につかものである。
- ”実際の姿”を”体験的”に知ることである。
このような前提に立ち、更なる悟りの説明を以下に続けたい。
また悟りは、禅体験である。 この体験は、自己と自然、宇宙とがもともと一つである、自己と対象が一体化していることに気づく体験であり、主客未分(引用者注:主体と客体とが分かれていないこと)の純粋体験である。これを証(あかし)ともいう。証は、自ら明らかに知って疑わないこと、無上の真の事実を自ら発見し確認すること、証明する、体得することである。[1,
p94]
ここでも再度、悟りとは”体験”であると強調が行われている。 その体験とは、自己や周囲の自然、そして宇宙までもが元々一つであることを、紛れもない、確かなものとして”知る”ことであると述べられている。 それこそが”証(あかし)”であると述べられているのである。
ここでは、”主客未分、主客一如(真理はただ一つであること。[4])”を知り、三昧(心が統一され、安定した状態。一つのことに心が専注された状態。[4])に至る、ということが行われている。
そして、”禅体験”に関する説明は次のように続く。
しかしながら、このような主客未分、主客一如の純粋体験がそのまま禅体験ではなく、その事実に基づく覚(かく)がなければならない。この覚が悟りの本質なのである。 この覚は、直覚、直観であり、覚証、覚醒、覚知、覚体験とも言う。 なにかのきっかけで体験的に気づく、目覚めることである。これを感性的に見る、看る、宇宙の実相を微見するともいう。これを自己に関していう時は、見性というのである。[
1, p94]
仏の意味からすれば”覚(かく)”とははっきりわかること、悟ることであり、目覚めることでもあり、悟りの智慧でもあり、そして、”覚悟”でもある。 ただ単に”三昧”を体験するのみでなく、この”覚”があって初めてそれが悟りと呼ぶに値するものと言えるのである。
この”悟り”の結果、人は次のような状態へと導かれてゆく。
悟りの世界は、新しい世界の発見である。そこに人生および世界に対して新しい見方をうるのである。普通の意識が崩壊し、そこに新しい意識が生まれるのである。古い世界がこわれ、新しい世界が現出するのである。この瞬間を、爆発、突破(Durchbruch)ともいう。[
1, p95]
ここに、”創造性”の生まれる余地があるのである。
”悟り”の中の創造性
世界と自分という関係を、”世界から自分に対するもの”として見ている状態から、”自己が世界になり切った状態”に切り替わると、今までの固定されていた観念から切り離され、自由なものの見方が出来るようになるのである。
禅定(心を静めて一つの対象に集中する宗教的な瞑想。また、その心の状態。[4])によると、一般に以下の3つの状態を通過するとある。
- 第一の段階は、(自己)→(世界)、自己が対象としての世界に接近する注意集中(concentration)、凝念(dharana)(引用者注:ぎょうねん。思いをこらすこと。[4])の状態である。
- 次の第二段階は、(自己=世界)、自己が世界と一体化する瞑想(meditation)、静慮(dhyana)(引用者注:せいりょ。心をしずめて考えること。おちついた心。[4])の状態である。
- 第三の段階は、(世界)→(自己)、世界の方から自己へ接近してくる状態、または(自己=世界)→、自己と世界が一つである真の自己(真の事実ともいう)が自由に、十分に働き出す状態である。[1,
p95]
この結果、第三の段階の達成により次のようなことが起こる。
たとえば、作家がつくり出す人物が作家の意思とは別に勝手に動き出し、機械が発明者にアイデアを語りかけるという自律性が生ずるのである。これは創造技法であるシネクティクスの創始者ゴードンが「対象の自律性」(autonomy
of object)と呼んでいるものに相当する。[1, p95]
又、同じような例として以下の詩を掲載したい。
「海」
小学校五年 松永文子
私の体に海の水がかぶさって
きたかとおもうと、私の体は
海にとけていき、海となった。
私の体の中を魚がいったりきたりして
とてもゆかい。
おもわずわらったら、大波ができた。
夏になると、人が集まって、私の体にはいって遊ぶ。
とても楽しい。
でも、時々、嵐がやってきて、
私の体をいためつける。
だから、私があばれたため、
しずんだ船もたくさんある。
その船が魚の家となり、
私の体の中は、美しい魚でいっぱいだ。[1, p65]
ここでは自分の体が海となり、逆に、海が自分自身ともなっている。 相互の関係がダイナミックに迫ってくる詩であり、まさに神秘体験なのである。
子供は往々にして、上に書いたような3つの状態を通過するまでもなくこのような状態にあるのである。
”創造性”とは悟りによって得られる副産物
実際のところ、”創造性”とは悟りによって得られる副産物に過ぎない。 その意識をもって、主題は悟りであって創造性のみを追いかけることがないようにしなければならない。
”禅”の起源
”禅”という言葉はそれそのものでは謎に留まる。だが、その起源を辿れば、その意味が自ずとはっきりするのである。 この言葉はインドにおけるサンスクリット語の「ディヤーナ」という言葉に由来する。そして、その意味は以下のようなものである。
「ディヤーナ」とは心を超えること、思考プロセスを超えること、静寂の中に入ること−−−なにひとつ動くもののない、なにひとつかき乱されるもののない、すべてが不在の完全なる静寂のなかに入ることだ。そこにはただ純粋な虚空しかない。この空間(スペース)が禅、この空間が瞑想だ。[3,
p185]
サンスクリット語は学者たちの言葉であり、当時、人々の使ったパーリ語では「ジャーナ」と言った。中国語では「チャン」になった。そして日本に渡ったとき、「ゼン」になった。 尚、サンスクリット語とは世界のなかでももっとも深遠な意味を持つ言語のひとつである。
ただ、これだけの説明では不十分な面があるだろう。 以下、禅の悟りについて解説を加えたい。
”真の自己”、或いは”真の事実”とは
悟りによって得られる認識から説明を始めなければならない。
悟りは、真我の発見、すなわち真実の自我の本体を発見し、把握することである。この場合の自己は自己がない時、すなわち無我の時、すべてのものが自己である。 自他不二、主客一如の真の自己(真の事実)に気づくのである。[1,
p96]
このことを簡単に言うと、「悟りとは、今まで自分だと思っていた認識が崩壊して全てのものが自分自身だと認識することである」となる。 上の引用文を”回りくどい”と思われるかもしれないが、禅の言葉とは往々にしてこのようなものである。
そして、”全てのものが自分自身であった”という認識を指して”真の自己”或いは”真の事実”と言い、その両者は同じものを指している、ということである。 その結果、以下の認識に繋がるのである。
禅の本質は、直指人心 見性成仏(引用者注:
自己の本来の心性を徹見すれば、それが仏の悟りにほかならないということ。[4])である。要するに己事究明、すなわち自己の本性をつかむ。そうすれば自己が仏であることに気づく。 「仏に成る」といっても、実は自己は本来仏であることに気づくことなのである。[1,
p96]
結果、”真の自己”の性質を示すと、以下のようなものである。
一切の現象は、本質的にその中味は全くなにもないということであり、しかもその中に無限の働きを持っていることである。そして世界は一つであるということである。すなわち、何もないということは、すべての現象は、因果律にしたがってあらわれるもので、条件があれば生じ、条件がなくなれば、なくなるということである。その意味で、一切の現象の本質は、カラッポであって無自性、すなわち固定した性質を持っていないのである。それが無限の働きを持つとは、「無一物中 無尽蔵 花有り 月有り 桜台有り」で、何もないところに、無限の生成と創造の根源があるということである。そして世界が一つだということは、自他不二、主客一如のことで、山も河も太陽も、他人も、一切のものが、自己であるということである。また一切の現象が、本質的には何もないというところから、一つだということになるのである。[1,
p96]
逆説的ではあるが、”何もないからこそ、全てがある”と言えるのである。 この点に関しては誤解も多くあり、これだけの説明では十分とは言えないのだが、ここではこれ以上踏み入ることはしないことにする。
悟りに、”これでいい”という到達点はない
最後のまとめとして、以下を引用したい。
禅の悟りには、これでいいという到達点はない。 いったん得た悟りも、そこにとどまっていては、進歩向上のさまたげとなる。そこで悟っては、その悟りの跡を払い、さらに悟ってはその跡を払って、その奥をきわめる必要がある。そして最後には、悟りの意識までも払いつくしてしまうのである。 ここは何者もうかがい知ることのできない境地である。 ここは自然のあるがままの世界である。 これこそ無限の生成と創造の源泉であって、これがつかめれば安心がえられ、生命力がみなぎり、自利と利他共に自由自在に、しかも創造的に活動しうるようになるものである。[1,
p98]
それ故に、我々は”悟り”そして”創造性”にかくも憧れることがあるのであろう。 輝ける人々、その輝きの源泉は悟りにもその要因の一端を見出せるのである。
平成16年2月22日 17時0分 記
■参考■
1.禅と創造性 (恩田
彰 著)恒星社厚生閣 (専門者向け)
2.創造性教育の展開 (恩田 彰 著)恒星社厚生閣
3.ボーディダルマ (和尚 OSHO 著)めるくまーる
4.広辞苑 第五版
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