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大東亜戦争
〜 アジアの忠臣蔵 〜

 


大東亜戦争は、アジアの忠臣蔵である

忠臣蔵は元禄十五年十二月十四日の冬の日、大東亜戦争は昭和十六年十二月八日の冬の日、共に初冬の夜明けの暁の奇襲成功の大事件であった。

忠臣蔵には原因があり結果があり、双方が評価され、美談・美挙となった。 一方、大東亜戦争は原因を一切不問にされてしまい、結果だけを評価され、卑怯者呼ばわりされる結果となった。だが、事実そうだったのであろうか? 真珠湾奇襲の原因は、紛れも無い、西欧各国のアジア侵略であった。

開戦の直接的原因はハル・ノートと石油の対日禁輸である。 アメリカは、「石油の一滴は、血の一滴」といわれた時代に日本への輸出を全面禁止してしまった。 このことは当時の国際情勢から言って開戦は免れない、というのが大方の見方であり、あえてこれを行ったアメリカは、まさに”日本を挑発した”のである。

忠臣蔵は四十七士の切腹で幕を閉じたが、大東亜戦争では東条英機を筆頭としたA級戦犯7名、その他アジア各地も含め千人余りの刑死で幕を閉じた。 どちらも主君や国家に忠誠を尽くし、”義”の為に死んでいった。 ”義”とは武士道の考え方で、”道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。”[3] である。

忠臣蔵は日本の国内問題に終わったが、大東亜戦争は世界の地図を塗り替えるほどの結果をもたらした。民族は解放され、世界の各地でそれぞれの民族が独立を果たした。大東亜戦争の目的を完璧に果たしたのである。日本は、戦争には負けたが、その目的を見事に完璧なるまでに果たしたのである。 これはまさに、世界史上の最高峰であり、人類五千年の世界史上から見ても、大東亜戦争以上の大事件は見あたらないのである。

大東亜戦争の意義を認識する者は、次のように雄弁に語る。

 アレキサンダー帝国の建設も、ジンギスカンの大遠征も、ナポレオン戦争も、第一次世界大戦も、大東亜戦争の規模、内容、結果に比べたら、ものの数ではない。歴史的時間の経過と共に、この大事件の意義が、虹の彼方に富士山やエベレスト山のように、明瞭に、雄大に、英姿を現してきたのです。(中略)
 近世、世界史上人類解放の三つの革命があったといわれる。それは、「産業革命」と「フランス革命」と「大東亜戦争」である。産業革命で労働から解放、フランス革命で自由と平等を、大東亜戦争で有色人種四十億人が白人の奴隷支配から解放された。この最後の解放ほど偉大な歴史があったであろうか。[1, P220]

 

戦勝国の良心

平成3年、日本傷病軍人会代表団が戦時は敵国であったオランダを訪問した際、同国の傷病軍人代表と共に聞いたアムステルダム市長の挨拶が、以下のものである。

「貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダはその間屈辱の連続でした。即ち勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三十六倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄躍栄華を極めていました。
 今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国丈となりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は私共白人が悪いのです。百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて長い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです [1, P126]

 

戦後におけるアジアからの声

以下は、1973年にタイの首相になったククリット・プラモードの言葉である。

 日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。[9, p106]

 ここには、現在日本が置かれている状況がありありと示されている。 難産して母体を損なったのは、左翼思想の氾濫である。 そして、生まれたアジア諸国がすくすくと育っているという点に関しても、我々がいつも「アジアを征服してすいませんでした」ということしか教わってこなかったのとは正反対を示している。 日本の国内にあるステレオタイプと、世界の多様な情報とは、これほどまでの隔たりがあるのだ。

 

パール博士の日本無罪論

日本が”防衛の為”に開戦に踏み切ったのだという史観は、今では国際常識となっている。 その根底を成すのが東京裁判におけるインド代表の判事ラダ・ビノード・パール氏の立論である。 世間では「日本無罪論」という。

この論の分析は世界的に広く行われ、今や国際法の常識とさえなっている。 しかし、日本においてはGHQが公開を禁止していたこともあり、1950年代になるまでその内容が表に出ることはなかった。 これほど重要な資料が当の日本においてそれほど有名ではないのは、日本及び世界の不幸でもある。

パール博士は、東京裁判の結果を見、「法の真理は失われた」と嘆いた。そして、広島で「私たちは過ちを繰り返しません」と言う言葉を聞いたとき、東京裁判の被害は核爆弾よりも甚大だ、と喋ったという。

以下のように、国際法は未だ眠ったままである。

 戦争裁判は、パージ(公職追放)とともに第二次世界大戦の一大特色であったといわれている。だが、この戦争裁判があまりにも不公正であり、報復的にすぎたため、国際法は進歩を阻害されたばかりか、その威信はまったく地に落ちた観がある。たとえば、その後に起きたベトナム戦争で明らかに毒ガスやBC兵器が使用されたにもかかわらず、国際法は眠ったままであり、ハンガリー事件、ベルリン事件、キューバ事件、あるいは中印国境問題やアイヒマン事件あど、相次ぐ国際的重大紛争や事件において、明瞭に国際法に抵触している点があるにもかからわず、誰れひとりそれを口にするものすらいなくなった。あたかも、国際法はあって無きがごとくである。
 かくして、戦争裁判の結果、むしろ世界の法秩序はことさらに無視されるようになり、世界は完全なる無法社会と堕してしまったのである。[2, P1]

「不正なる裁判の害悪は、原子爆弾の被害よりもはなはだしい」とは博士が警告された言葉である。

続けて、大東亜戦争の前後を、時系列に沿って見ていきたいと思う。

 

大東亜戦争に先駆けた、日清戦争、日露戦争

この戦争が世界史の流れを変える出発点となった。

当時の中国、清国は阿片戦争(1842)に敗れ、西側の支配・領土分割に屈した。清国はその敗戦を挽回すべく、東側にある弱い国、”朝鮮と日本”に目を向け、支配を企てた。清は朝鮮に対する支配を強化しようと、朝鮮の内乱(1882)をきっかけに支配を強化すると共に、日本を想定敵国として設定し、北洋艦隊とその根拠地となる旅順軍港を新設し、日本を威圧した。

日本にとって、朝鮮は一番近い隣国であり、生命線でもあった。 威圧を受ける中、朝鮮の独立を守る為に日清戦争(1894 明治27〜翌年) が開始された。戦争は予想以上の日本の連戦連勝で、1年足らずで終わることになる。終戦にあたり、下関講和条約(1895)が結ばれることとなった。 以下は、この条約の内容である。[4]

  1. 清国は朝鮮が完全無欠な独立自主の国であることを確認する
  2. 遼東(りょうとう)半島,澎湖島,台湾を日本に割譲する
  3. 軍費賠償金として庫平銀2億テール(邦貨約3億円)を支払う
  4. 沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と,開市・開港地における製造業従事権の承認
  5. 日清修好条約をヨーロッパ諸国と同じ条件で結ぶこと

しかしその6日後、満州進出の野望を持つロシアはドイツ、フランスと協力し、”遼東半島を返還せよ”とのいわゆる「三国干渉」を行った。

この三国干渉の論理は、表立っては「遼東半島の日本領有は清国の首都をあやうくし、朝鮮の独立の妨げとなって東洋の平和をおびやかす」[5] というものであり、これを正論とすれば「侵略者は日本」ということになってしまうのであるが、ことはそんなに単純ではなかった。それぞれ、以下のような思惑があった。

ロシアは将来の極東進出のために不凍港が必要で、それをえるには日本の大陸進出をはばまなければならなかった。ドイツは、ロシアの矛(ほこ)先が日本にむかえば露独国境が安全になるし、将来の清国分割に際して発言権をもつことができると考えた。フランスには、露独の緊張緩和は自国にとっても安全なうえ、露仏同盟を実行する立場からも都合がよいとの思惑があった。[5]

当時の日本は、当時の3列強と戦う力がなかったため、涙を呑み、返還に応じた。 ここでも、日本には日本の考えというものがあった。 次のようないきさつがある。

日本はやむなくイギリス,アメリカ,イタリア3国の後援をえてロシア,ドイツ,フランスに対抗しようとしたが,対清貿易の安定を望むイギリスの拒否をうけてその企図も失敗し,5月4日,遼東半島全部の返還を決定した。 日本は下関条約の批准でひとまず遼東半島を領有したが,11月8日代償金4500万円を受けることで妥協し遼東半島還付条約に調印 し,12月27日占領地の引渡しを完了,撤兵した。[4]

だが、話はこれだけでは終わらない。清国に恩を売る形となったロシアは厚かましくも、そのわずか数年後である1898年3月に遼東半島を清国から租借し、その支配下に置いた。

ロシアは、自分から言い出した「遼東半島の日本領有は清国の首都をあやうくし、朝鮮の独立の妨げとなって東洋の平和をおびやかす」の意味を忘れた訳ではあるまい。 ロシアは、日本に向かって”侵略はいけない”といいつつ、機会を見るやすぐに自分が侵略をしてきたのである。 日本でこのような不誠意を見ることは”まれ”であったが、国際的にはこのロシアのような策略は常套手段であった。特に共産主義国家においては。 一言で言えば、”ご都合主義”である。

ここで、ロシアは旅順に大要塞を築くこととなる。

このロシアの日本軽視のあまりもの仕打ちに、いつか仇を討つべしと「臥薪嘗胆(ガシンショウタン)」という言葉が流行した。

臥薪嘗胆(ガシンショウタン)
元来は中国の《史記》〈越世家〉などに見える〈復讐(ふくしゆう)するため艱難(かんなん)辛苦する〉ことを意味する成句であるが,日本史上では,日清戦争後ジャーナリズムを中心に流布したスローガンとして知られている。
この標語は,政府が挙国一致の維持をはかり,軍事力の強化をめざす戦後経営で増税,公債発行などに国民の協力をもとめるうえで,うってつけの言葉となり,国民にロシアへの報復という思想をひろめる役割を果たした。[4]

かつては「眠れる獅子」と恐れられていた清国は、日清戦争に敗れたことにより「眠れる豚」と軽視されるようになった。 それに伴い、列強の中国侵略は一段と激しくなってゆく。山東省をドイツに(1898)、威海衛を英国に(1898)、広州湾はフランスに(1899)租借された。

 列強の侵略は中国民権運動を刺激し、「扶清滅洋」をかかげる義和団の運動となった。ここにある「洋」とは西洋のことである。列強はその支配を強めるため軍隊を派遣し、北清事変となった。

北清事変(ほくしんじへん)
義和団の京・津占領から連合軍の北京占領にいたる戦争を,日本では〈北清事変〉と呼んだ。[4]

事変が鎮圧されたにもかかわらず、ロシア軍は厚かましくも満州に居座り、続く朝鮮まで勢力を伸ばしてきた。この時期における日本国内の情勢は複雑だった。

このいわゆる北清事変以後,日本政府内には,東アジアで安定した国際的地位を確立するためイギリスとの接近をはかろうとする日英同盟論と,ロシアとの妥協により極東の平和を維持しようとする日露協商論とが台頭した。元老山県有朋や外相小村寿太郎らはロシアへの不信から前者を主張し,他方,元老伊藤博文,井上馨らは現実的な解決策として後者を推進しようとした。[4]

これはいわゆる、陸を主体としたランドパワーと海を主体としたシーパワーの対立として捉えられる。 ロシアは元々ランドパワーの国であり、英国はシーパワーの国である。 歴史上、日本はシーパワーの国と組んだときにその真価が発揮できている。 朝鮮や中国はランドパワーの国であり、台湾やインドネシアはシーパワーである。

この後、日英交渉が進展し、1902年1月 日英同盟条約が調印された。 日本は複雑な極東情勢のなかで、イギリスとの同盟関係を成立させることで初めてロシアに対抗する足がかりを得たこととなる。 そして、1904年(明治37)、日本はロシアに宣戦布告を行う。

北清事変があり、ロシアの南下政策・日本の国防・西洋の思惑、複雑なものが絡み合ったまま日露戦争に突入して行くことになる。

以下は日露戦争の一般データである。

日露戦争(にちろせんそう)
1904‐05年(明治37‐38)に日本とロシア両国が朝鮮(大韓帝国),満州(現,中国東北部)に対する支配をめぐって戦った戦争。両国の背後には,英米,仏独など諸列強の帝国主義的利害の対立があったため,戦費の調達や講和などに各国の利害や思惑がからみ,他方,新興国日本の大国ロシアへの挑戦として世界の注目を集めた。明治三十七・八年の役ともいう。[4]

これは、世論的に言うならば”積年の臥薪嘗胆の怨みが終に爆発”した形ともなった。

陸軍は満州に出兵し、ロシアの大要塞、旅順の難攻不落・二百三高地を6万人もの死傷者を出しながら陥落させた。これが、世に名高い乃木大将である。そして、続く奉天大会戦にも勝利した。 まさに、陸軍は大東亜終戦まで”連戦連勝”を誇るのである。大東亜戦争の終戦において300万もの兵隊を残しながらも、ほとんど暴動もなく1日で剣を修めた陸軍は、まさに武士の表れであったといえよう。

ロシアはこの劣勢を挽回すべく、バルチック艦隊を極東に派遣した。 ここに、世界史に残る大決戦、国運を賭(と)した日本海海戦が幕を開けるのである。

日本の連合艦隊司令長官は東郷平八郎。 ロシアの司令長官はロジェストウェンスキー。 共に、国の運命を背負っていた。 味方は戦艦四、巡洋艦二十、駆逐艦二十一、その他四十九隻。 敵は戦艦八、巡洋艦十一、駆逐艦九、その他で三十九で、ほぼ戦力は互角であった。

敵艦が宗谷、津軽、対馬のどの海峡を通ってくるかが問題であったが、東郷は対馬海峡に総てをかけた。5月27日、予想通りの敵艦の動きとなる。 見張りの億艦〈信濃丸〉より「敵艦見ゆ」と報を受け、東郷長官は名文句、「天気晴朗なれども波高し、皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」を掲げ、戦闘に挑んだ。

戦いは、海戦史上稀に見る”完全勝利”であった。勝因は東郷ターンに代表する戦術の巧みさ、日頃の猛訓練、新開発の下瀬(シモセ)火薬、早々に指揮官を失ったロシア側の大混乱などが挙げられる。 約半日の戦闘であった。

日本勝利の報は、世界中の人々を感嘆させた。有色人種が白人種族に勝った始めての戦いであり、世の中に希望が、感動が、そして勇気が沸き起こる、一大事件であったのだ。 当時の人々の感動は、様々なところに見ることができる。日本では、三日三晩の提灯行列と万歳万歳の喜びが津々浦々、日本列島になりひびいたのだ。 世界の国々でも、特にロシアに占領されたり、圧迫を受けている国々では喜びの声が沸き上がった。 この勝利を我が事のように喜び、日本と東郷平八郎を賞賛したのだ。 トルコに関して、以下のようなレポートもある。

 トルコのイスタンブールには、「東郷通り」があり、更に「乃木通り」「児玉通り」もあります。ポーランドには、トーゴーやノギが人名になっている程です。フィンランドには、「アドミラル・トーゴー」と銘打った、東郷ビールが飲まれております。これまで数十万本が日本に輸入されています。[1, P150]

この戦いが人類解放の出発点であり、その集結、完成が大東亜戦争であった。 日露戦争を抜きにしては民族解放・大東亜戦争の大儀は語れないのである。

多くの日本の教科書に書かれている、”ロシアの侵略をかろうじて防いだ”というような、まるでロシア側から見た負け惜しみのような文章を読んでいるだけでは歴史の真実を見出すことはできないのである。

 

支那事変(日中戦争)

一般的には”日中戦争”と呼ばれている。 当時は支那事変と呼ばれ、戦後の一時は日華事変とも呼ばれた。この事変の発端となったのは盧溝橋(ろこうきょう)事件である。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん事件)

これは昭和12年(1937)7月7日の夜、北京(当時は北平)の南西郊外にある蘆溝橋付近で起こった日中軍の衝突事件のことである。中国では七・七事件ともいう。 この事件は、中国という泥沼に足を突っ込んでしまった日本の不幸でもある。一般的には次のように伝えられている。

 当時中国では華北侵略をはかる日本に対して抗日救国運動が高まり華北情勢は緊迫していたが,この夜蘆溝橋の北で夜間演習中の日本軍中隊長が実弾射撃の音を聞き,兵1名が不明となった(まもなく帰隊)ことから戦闘態勢に入り,翌8日夜明けに中国軍陣地を攻撃して戦闘にはいった。
  停戦交渉では日本側は永定河西岸への中国軍の撤退を要求したが,前年9月の小競合いで豊台を撤退させられた経験をもつ中国側は容易に承認せず小衝突も起こったが,11日にようやくこれをのんで停戦協定が成立した。
  ところがこの日近衛文麿内閣は〈支那側の計画的武力抗日〉によるとして華北派兵を声明し,内地3個師団の動員を決定するとともに各界に挙国一致を呼びかけた。これに対して中国国民政府は,中国の主権侵害と冀察(きさつ)政権(冀察政務委員会)への強要は断固拒否し,〈最後の関頭〉に立ち至れば抗戦も辞さないと声明した。28日には華北の日本軍は総攻撃を開始し,日中全面戦争にはいった。[4]

そして、この事変が拡大し、12月13日に南京を占領した際に起こったとされているのが南京大虐殺である。

南京大虐殺

この事件は中国のでっちあげである。 中国では、戦に負けた側が相手を罵る為に”三光政策を取った”と言う習慣がある。 その負け惜しみ発言を聞いた日本人が間に受けたの見て ”しめしめ。これは利用できるぞ。” と思いついた左翼がでっち上げた話である。 以下のような視点も参考にされたい。

 南京大虐殺については日本側から多くの学術的反証がだされていますが、中国政府も日本政府も、これを一顧だにしません。従軍慰安婦も、日本の学者グループが軍の強制がなかったことを明らかにしましたが、逆に日本政府が軍の関与をみとめてしまう始末です。中国政府は、南京大虐殺の被害者を30万人としましたが、当時、市民が20万人しかいなかった南京でどうして30万人の虐殺ができたでしょう。しかも事件があったとされる直後、南京市の人口は、疎開地から大勢のひとがもどってきて30万人にも達しています。安全が確認されたからです。虐殺があったのなら、どうして安全が確認できたでしょう? 軍の関与による朝鮮人婦人の強制連行が事実なら、なぜ、従軍慰安婦が戦後50年も沈黙していたのでしょう? すべて真っ赤なうそだからです。[10, p145]

支那事変は解決することなく、そのまま大東亜戦争に突入してゆく。

 

大東亜戦争の勃発

大東亜戦争とは東条英機内閣が決定した太平洋戦争の呼称である。

大東亜戦争(だいとうあせんそう)
東条英機内閣が決定した太平洋戦争の呼称。開戦2日後の1941年12月10日,大本営政府連絡会議は,この戦争を〈支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す〉との決定をおこない,12日内閣情報局は戦争目的が〈大東亜新秩序建設〉にあるとの説明を発表した。ここにいう〈支那事変をも含め〉というのは,1937年7月7日に勃発した〈支那事変〉までさかのぼって含めるのではなく,41年12月8日以後の中国地域での戦争を含めるという意味である。[4]

ここでは、その戦況を細やかに追うことはしない。 戦いの理由と、その結果、志を主に焦点を当てたいからだ。

以下は、宣戦の詔書である。

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これは、開戦の理由を端的に述べられているものでこの上なく重要である。

開戦の理由は主に以下のものである。

  • 支那事変における米国の中立義務違反
  • ABCD経済包囲陣と日米交渉における米国の時間稼ぎ
  • ハル・ノートによる恐喝

それぞれ、以下に概略を記載する。

支那事変における米国の中立義務違反

支那事変の間、アメリカは中国への武器援助を行っており、日本が幾度となく抗議を行ったにも関わらず止めることがなかった。 国際法に照らせば、これは明らかな中立義務違反であり、東京裁判におけるパール判事の判断によれば、既にこの時から日本とアメリカは交戦状態にあったことになる。 パール博士によれば、真珠湾攻撃の遥か前から日本とアメリカは交戦状態にあり、だまし討ちなど存在しないことになる。 これは与太話ではなく、国際的には既に広く知られている事実である。 以下の文を引用したい。

「国際法の基本原則によれば、もし一国が、武力紛争の一方の当事国にたいして、武器、軍需品の積出しを禁止し、他の当事国にたいして、その積出しを許容するとすれば、その国は必然的に、この紛争に軍事干渉をすることになるものであり、宣戦の有無にかかわらず、戦争の当事国となるのである。」 (中略)
つまり、博士によれば「アメリカはみずからの行為によって、真珠湾のはるか以前から交戦国となっていた」のである。[2, p111]

 

ABCD経済包囲陣と日米交渉における米国の時間稼ぎ

ABCD経済包囲陣とは、アメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)の連合国が日本に対して行った経済封鎖のことである。 特に、生命線であった石油の取引を中止させられたことが決定的となった。 当時、アメリカの政治家や軍事家、評論家などの間では、石油を禁止した途端に戦争になるだろうということは常識となっていた。 ルーズベルト大統領も以下のような発言を行っている。

「アメリカが日本に対し石油の輸出を禁止しないのは、米国自身の利益、および英国の防衛、さらにまた海上の自由をおもんぱかり、南太平洋水域にける戦争の勃発を避けるためである。すなわち日本を挑発させないためである。」[2, p120]

当時、日本とアメリカの間では主に支那大陸の覇権を巡って激しいやり取りがなされていた。 戦後に行われた東京裁判の判決文によると、日本側には譲歩も誠意も認められず、交渉を締結させる意志もなかったとあり、日本は戦争準備のための時間稼ぎをし、アメリカの譲歩にも関わらず日本が強引に開戦に持ち込んだ、ということになっている。 この、教科書にも書かれてあったりする事項は、事実は、全くの逆であり、実に3回前後も譲歩を重ねていた。 そして、最終的にアメリカは日本を挑発する目的で石油の禁輸を行ったのだ。 そして、以下のような視点もある。

「効果的な禁輸がもっと早くから実施されなかったわけは、合衆国が当時日本にたいして友好的であったからではない。当時一般に行われた見解は、もしも全面的な禁輸を実施したら、日本は破滅するにいたるであろうということであった。そうなると日本は戦うよりほか道はなくなる。しかし、そのときアメリカにはまだ対日戦争の危険をおかすだけの用意がなかった。ドイツが太平洋方面において、アメリカを攻撃することができないという点が十分たしかめられるまでは、米国としては、うかうかと太平洋において全面戦争を招来するようなことはできなかったのである。」[2, p122]

事実は、時間稼ぎをして特になるのはアメリカであり、日本ではなかった。

 

ハル・ノートによる恐喝

以下は、ハル・ノートに関する一般データである。

ハル・ノート (Hull Note)
日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案。1941年11月20日日本側が提出した対米交渉要領乙案にたいする回答として,11月26日に C. ハル国務長官が提示した。おもな内容は,いっさいの国家の領土と主権の不可侵,内政不干渉,通商上の機会の平等,国際紛争の平和的解決の4原則のほか,日本,アメリカ,イギリス,中国,オランダ,タイ,ソビエトの間の多辺的不可侵条約の締結,中国とインドシナからの日本の軍隊と警察力の全面撤退,重慶にある中華民国国民政府以外の政府もしくは政権の否認,日独伊三国同盟の否認などであった。東条英機内閣と軍部は,ハル・ノートを対日最後通牒とみなし,12月1日の御前会議で12月8日の太平洋戦争開戦を最終的に決定した。[4]

そして、この通告を知った時の反応が以下のものである。

東郷被告(当時の外相)も、ハル・ノートを野村大使から電報で受けとったときには「眼もくらむばかりの失望に撃たれた。」と告白し「日本がかくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートのごとき最後通牒をを送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した。」とのべている。
 被告の全部が、いずれもこれと同じ感懐をのべている。日本の指導者がそう受けとったばかりでなく、後日アメリカにおいても、このハル・ノートにたいする非難の声は、日を追って高まった。[2, p136]

”被告”とあるのは東京裁判における被告のことである。

そして、ハル・ノートを出したアメリカはこれがそのまま開戦に至るだろうということを予想しており、この最後通告は宣戦布告に等しいものとみなしていた。 パール判事による判定でも、事実上の開戦は宣戦布告と真珠湾攻撃が行われた12月8日ではなく、ハル・ノートを提出し米軍が戦闘配備についた11月27日となっているのである。 以下を引用したい。

事実上の開戦=11月27日
「ルーズベルト大統領とハル国防長官とは、右の覚え書に含まれた提案を、日本側が受諾しないものと思い込んでいたので、日本側の回答をまつことなく、右の文章が日本側代表に手交されたその翌日、アメリカの前哨地帯の諸指揮官にたいして、戦争の警告を発し、戦争体制に入ることを命令したのであった。ロバート報告書は、アメリカの前哨指揮官たちが11月27日に、すでに開戦の日が迫っているという警告を入手したと明言している。」
パール博士はその証拠をあげて、太平洋戦争は事実上11月27日からはじまったことを立証しているのである。[2, p141]

戦闘が11月27日から始まっていたとすれば、12月8日の真珠湾はだまし討ちでも何でもないということになる。パール判事のこの立論は国際法を学ぶものにとって教科書のようなものであり、決して、与太話ではないことをここに再度記しておきたい。

最終通告に至った裏には、アメリカによる中途半端な暗号解読の悲劇も挙げられる。 一字一句間違えずに解読されていたのならばむしろ良かったのであるが、酷く誤って解読されたことに悲劇の一端がある。

結果、上にあるような開戦の詔書に繋がるわけだが、以下は、この宣戦布告の背景に関する一般データである。

1941年(昭和16)12月8日午前7時、首相官邸にて緊急臨時閣議がおこなわれ、いわゆる「大東亜戦争」宣戦布告の件、政府声明文など重要案件を付議し、決定した。同30分、枢密院は臨時緊急全体会議を開き、政府側から宣戦布告の件を議題にして、情勢分析、政府の所信など、さまざまな問題について協議したのち、9時45分から天皇をまじえて本会議を開催し、宣戦布告を決定した。11時10分枢密院本会議は終了。11時40分、宣戦の詔書は発せられた。 『官報 号外』1941年(昭和16)12月8日 [5]


ハル・ノートはソ連のエージェント(スパイ)によって作られたもの (平成18年5月6日 追記)

 ハル・ノートはアメリカの今までの対日外交をことごとく覆すものであった。その文章はソ連のスパイによって作られたものなのである。ハル・ノートはルーズベルト大統領の側近、ハリー・ホワイトによって作成され、それがハル長官は大統領の命に従って日本に提示されたのであるが、このハリー・ホワイトはソ連のエージェント(スパイ)だったのである。 その根拠は、アメリカで1995年に公開された「ヴェノナ(VENONA)文章」にある。
  ヴェノナ(VENONA)文章とは、第二次世界大戦時期においてアメリカのNSA(国家安全保障局)が入手・解読した暗号文章のことであり、この中に、ハリー・ホワイトも出てくるのである。

 

大東亜共同宣言

戦時中である昭和18年(1943)11月、大東亜会議において全会一致で採択された、大東亜共栄圏構想の宣言である。

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天皇はこのような理想を描いていた。 下に示してあるように日本には皇道派によるアジア主義と統制派による帝国主義が混在していたのだが、皇道派はこのような大東亜共栄圏を純粋に目指していたのである。

この決議がなされた大東亜会議には、以下の出席者が参加していた。

11月5,6日の両日,東京で開催されたこの会議には,東条をはじめ中国行政院長汪兆銘,〈満州国〉国務総理張景恵,フィリピン大統領ラウレル,ビルマ大統領バモー,タイ首相代行ワンワイタヤコーン,自由インド仮政府主席 S・C・ボースが出席,全会一致をもって大東亜共同宣言を採択した。[4]

 

ポツダム宣言

終戦にあたり、日本側が受諾した条項。 以下は一般データである。[4]

ポツダム宣言は,カイロ宣言(カイロ会談,1943年11月27日)とヤルタ協定(1945年2月11日)につづき,連合国首脳が太平洋戦争の終結条件と戦後の対日処理方針を決定したもので,その大要は次のとおりであった。

  1. 日本軍国主義の駆逐および軍国主義指導者の権力と勢力の永久除去
  2. 〈平和,安全及正義の新秩序〉が建設されるまでの連合国による日本占領
  3. 日本国の主権の本州,北海道,九州,四国および連合国が決定する諸小島への制限
  4. 日本国軍隊の完全武装解除と兵士の復員
  5. 戦争犯罪人の処罰と日本国内における言論・宗教・思想の自由および基本的人権の尊重
  6. 軍需生産の禁止
  7. 前記諸目的が達成され,日本国民の自由意志による平和的政府が樹立された後における占領軍の撤退
  8. 日本国軍隊の無条件降伏。

7月28日軍部主戦派の圧力に屈した鈴木貫太郎首相が,この宣言を〈黙殺〉すると言明したため,アメリカはそれを口実に広島と長崎へ原子爆弾を投下し,ソ連の参戦を経たのちの8月14日,日本は御前会議における天皇の〈聖断〉によりポツダム宣言の受諾を決定した。

よって、一般に知られているような”無条件降伏”ではなかった。 条件があったのだから”有条件降伏”であり、もし”無条件”というのならば”無条件受託”とすべきである。 このようなデマが広まったのは、戦後プロパガンダの威力である。 未だに、多くの教科書やマスコミが”無条件降伏”のウソを広めている。

 

終戦の詔書

有名な終戦の詔書である。 まず、以下に一般データを記す。

1945年(昭和20)8月14日、ポツダム宣言受諾の決定のあと直ちに詔書案を作成する閣議が開かれた。漢学者安岡正篤らの有識者や、外務省などの意見をとりいれた、総字数814字(天皇御爾の印影をのぞく)の詔書はその日のうちにつくられ、午後11時ごろ発布された。その直後スイスを通じて連合国側にポツダム宣言受諾の旨が通達された。 『官報 号外』1945年(昭和20)8月14日 [4]

以下は、詔勅の本文である。

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この玉音放送により、アジア各地に展開していた数百万の兵隊が、一斉に矛を下ろした。 これほどの戦力が残っていながら暴動・暴走もほとんど無く矛を降ろしたのであるが、これは、欧米の戦争では滅多に見られないことである。 いかに日本軍が統制を保っていたかがわかる一幕である。

 

天皇の人間宣言

昭和21(1946)年元旦に出された詔勅の通称である。

一般的には”戦後、天皇も一人の人であるという宣言がなされた”とされている。だが、歴史を正しく知る者からすれば天皇が人であることは当たり前のことであり、それは問題にあたらない。

人間宣言に含まれている”天皇を以て現御神として”の意味は、以下が参考になる。

元来、現御神(あきつみかみ)、或は、現神(あきつみかみ)又は明神(あきつみかみ)なる文字は、奈良朝頃の天皇の宣命(せんみょう)(詔(みことのり))に多く見られるものである。[13, p176]
宣命の劈頭(へきとう)

 
現御神大八嶋国所知天皇(文武天皇)
  (現御神(あきつみかみ)と大八嶋国(おおやしまぐに)しろしめす天皇(すめら)
現神御宇倭根子天皇   (元明天皇)
  (現神(あきつみかみ)と御宇(あめのした)しろしめす倭根子天皇(やまとねこすめら)
明神大八洲所倭根子天皇(考謙天皇)
  (明神(あきつみかみ)と大八洲(おおやしまぐに)しろしめす倭根子天皇(やまとねこすめら)

等十数の宣命があるが、いずれも、現御神、現神、明神の字の下に必ず「と」をつけて読むことになっている。これは「として」の意味で、「神の、み心を心として」天(あめ)の下しろしめす天皇という、至って慎み深い、祈りを込めた天皇御自身の自称であった。アキツミカミは「しろしめす」を形容する副詞として使われているのであって、「天皇(すめら)」を形容する形容詞ではないのである。[13, p176]

引用者注: 尚、上にある”しろしめす”とは以下のような意味である。[3]

しろし‐め・す【知ろしめす】
「知る」の尊敬語「しろす」よりさらに敬意の強い言い方。上代には「しらしめす」とも

  1. お知りになる。ご存知である。源氏物語花宴「くはしう―・し調へさせ給へるけなり」。天草本平家物語「鎌倉殿までもさる者のあるとは―・されつらう」
  2. 領せられる。お治めになる。古今和歌集序「すべらぎの天の下―・すこと」。平家物語11「ただ世の乱れをしづめて、国を―・さんを君とせん」
  3. お世話なさる。源氏物語夢浮橋「更に―・すべきこととは、いかでか空に悟り侍らむ」

と、いうように、 「神の、み心を心として」 という意味なのである。 元々、戦前も戦後も、この点は何も変わりないのである。

この人間宣言は、一般には確かに”人間宣言”と呼ばれているが、昭和天皇としてはこの人間宣言は2の次であり、冒頭に掲げられた”五箇条の御誓文”を示すことにより、このような立派なお考えが明治大帝の頃からあったことを示し日本人としての誇りを忘れないようにとのご配慮が第一にあったのである。

以下は、”明治天皇の『五箇条の御誓文』を示すにあたって陛下のご希望もあったということですが?”と尋ねたレポーターに対するお答えである。

陛下 それがあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。それを述べるということは、あの当時においては、どうしてもアメリカその他諸外国の勢力が強いので、それに国民が圧倒されるという心配が強かったから。
 民主主義を採用したのは、明治大帝の思し召しである。しかも神に誓われた。そうした五箇条の御誓文を発して、それが元となって明治憲法ができたので、民主主義というものは、決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思っています。
(中略)
そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると、非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が、日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することに私が希望したのです。[12]

歴史的にも日本には元々”公議尊重”という考えがあり、民主主義とは決して輸入されたものではないのである。

以下は、人間宣言に関する一般データである。[4]

 1946年1月1日に出された詔勅の通称で,この中で天皇の神格を否定した部分があるのでこの名がある。この詔勅では太平洋戦争敗北後の新日本建設の指針として1868年(明治1)の五ヵ条の誓文を掲げ,ついで天皇と国民の紐帯(ちゆうたい)は神話と伝統によって生じたものではなく,また天皇を現人神(あらひとがみ)としそれを根拠に日本民族の他民族に対する優越を説く観念に基づくものでもないとして,天皇の神格を否定した。
  この詔勅は GHQ の支持を受けて幣原喜重郎首相が英文で起草し,占領軍による日本民主化政策の一環として発せられた。それまで国家神道を中心に国民の戦争への動員がなされてきたので,発布時には天皇の神格否定の側面が国民に強い印象を与えたが,1977年8月,昭和天皇はこの宣言の〈神格否定は二の問題〉であり,五ヵ条の誓文が民主主義の伝統を表すものであることを強調したのだと発言した。      佐々木 隆爾

 

東京裁判

昭和21(1946)年5月3日から昭和23(1948)年11月12日の2年7ヵ月に渡って行われた軍事裁判の通称。正確には”極東国際軍事裁判”(International Military Tribunal for the Far East) という。

以下は東京裁判の判決表である。[4]

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この裁判において、インドのパール判事が以下に続く「日本無罪論」を展開した。 この事実は国際的にも、もちろん日本にとっても極めて重要なのであるが、戦後しばらくGHQが言論統制をしていたこともあり、今ですらあまり日の目を見ることのない、隠された真実なのである。

今後、この「日本無罪論」の研究がより一層、重要になってくるだろう。

 

「日本無罪論」の概略

以下、パール判事の「日本無罪論」に関する概略を記したい。

勝てば官軍か[2, P11]
道義と法律を混同してはならない。

判決理由のない判決 [2, P21]
「1950年のイギリスの国際事情調査局の発表によると、東京裁判は結論だけで、理由も証拠もないと書いてある。(後略)」

3つのキャッチフレーズ [2, P27]

  第一類 平和に対する罪
ヒトラー一党を一網打尽にするために考案された新しい罪名で、もちろん国際法にも、慣習法にもない。これを東京裁判にあてはめたものである。
第二類 殺人の罪
条約違反の罪から引き出されたものであって、宣戦を布告せずしてなされた敵対行為は戦争ではない。したがって、その戦闘によって生じた殺傷は殺人行為であるというのである。(中略)東京裁判の検察団によって発明された、これまた新たなる罪名である。
第三類 通例の戦争犯罪および人道に対する罪
非戦闘員に対して加えられた大量殺戮、または捕虜の虐待、酷使等、通例の戦争犯罪を総括していうのである。

このように、東京裁判に対する基本的な考え方は、すべて、さきに行われたニュルンベルグ裁判(※)に右へならえをしたものといってもいい。
※ 引用者注: 第2次大戦とそれに関連する特定の行為に対し,ナチス・ドイツの指導者たちの責任を追及するために行われた裁判。裁判がドイツのニュルンベルクで行われたので,この名があるが,正式名称は国際軍事裁判という。日本の指導者たちの同種の責任を追及した東京裁判と並んで,国際法上いくつかの重要な問題を提起した。

戦勝国の戦犯もさばけ [2, P31]

法はさかのぼらず [2, P54]

底を流れる人種的偏見 [2, P83]

人種問題への提言[2, P89]

満州事変はなぜ起きたか [2, P95]
これは”リットン報告書”を基としている。

防共協定は侵略か [2, P103]

中立義務は果たされたか [2, P111]

ABCD経済包囲陣 [2, P115]

日米交渉で時を稼いだもの[2, p122]

アメリカの最終通牒(ハル・ノート) [2, P136]

事実上の開戦=11月27日 [2, P141]

国際法学界に光を増すパール判決[ 2, P180]

  • 国際法の権威であるハンキー卿
    著書「戦犯裁判の錯誤」にて「裁判官パール氏の主張が、絶対に正しいことを、私は全然疑わない。」と言明
  • 英法曹界の重鎮であるF・J・P・ビール氏
    著書「野蛮への接近」
  • ロンドンの世界事情研究所による「世界情勢年鑑」(1950年度)には、54ページから104ページにかけて、東京裁判を解説し、パール判定が正論であることを裏付けた。
  • アメリカのチャールズ・ベアート博士
    著書「ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究」
  • アメリカの最高裁のウイリアム・O・ダグラス判事
    証言「国際軍事裁判所は政治的権力の道具以外のなにものでもなかった」
  • モントゴメリー・ベルジョン
    著書「勝利の正義」
  • フレダ・アトレイ
    著書「報復の高い代価」
  • 哲学者ヤスパース
    著書「戦争の責罪」

博士はこの後、東京裁判における立論が高く評価され、国連の司法委員会の委員および議長に就任し、その職務を全うした。

上に書いた通り、パール博士の判決は国際的には広く認められているが、日本ではほとんどその名を聞くことがない。 日本はまだ病に伏しているが、日本の復活の為、日本が過去を知るにあたって、この判決文を掘り起こすことは必須とも思えるのである。

 

アメリカの真の姿

以下は、アメリカの姿をよく示すレポートである。

日本のポツダム宣言受諾の報をうけたニューヨークタイムズは、昭和二十年八月十四日付で、「太平洋の覇権を我が手に」という大見出しの下に、「我々は初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これでシナ大陸のマーケットは我々のものになったのだ」の記事を掲載したという。 [1, P164]

まさに、大東亜戦争とは欧米による侵略戦争であったのだ。 軍事国家のアメリカの表と裏を垣間見る記事である。 アメリカの以下のような点を重々認識する必要がある。

口では平和を叫び、本音では戦争なしで生きられない
 戦後アメリカの詩人ウエン・コーエン氏は、大学の図書館でビアード博士の本に接して、一般常識と全く逆である事実に仰天した。そしてルーズベルトが戦争を仕組み、日本の無実の指導者を処刑したことに心から詫びたいと来日して、巣鴨刑務所跡の記念碑の前で次の詩を書き残した。
「あー、アメリカよ、汝は法を曲げ、正義を踏みにじった。ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、今や黄泉にて汝の非道に涙す」と。
  アメリカは戦前、戦後を通じて、世界一の軍事大国である。同時に世界一の武器輸出大国でもある。アメリカの第一の産業は軍需産業である。その繁栄のためには世界に戦争や紛争・動乱が多発することが不可欠である。だからアメリカは「死の商人」の代表なのである。外見で世界平和を宣伝しているようだが、裏では、心の底から戦争景気を望んでいる。ここにアメリカ伝統の二律背反の政策の矛盾が暴露している。[6, P152]

 

大アジア主義と帝国主義

 当時の日本は外国の勢力に怯え、危機感の元、理想の視点、そして現実的な視点から戦略が立てられていた。 それは時として以下のように見られることもあるが、むしろ、考えていたのは日本、それが中心にあった。 2つに分ける視点は、どちらかというと後の歴史からの視点であり、当時の人々は”日本”、それを中心に置いていた。 どちらも手段として日本の生きる道を選んだ。それだけのことだった。

 当時、日本には、アジアを植民地支配から解放し「大東亜共栄圏」を作ろうという理想と、西欧のやり方の真似をしてアジアを支配下におこうとする侵略思想が、ときにはぶつかり、ときには融合する”ネジレ現象”がおきていたのです。(中略)当時、皇道派はアジア主義、統制派は帝国主義に傾いていました。この両者の拮抗は、戦時下にとつぜん現れてきたものではありません。明治維新の近代化以降、現在に至るまで日本はそのジレンマをひきずってきたといって良いでしょう。[10, p26]

これを補うものとして、以下の主張も参考されたい。

明治維新は日本が近代化にふみだした転換期でした。このときに日本に”脱亜入欧”という考え方が生まれ、アジアの一国であるより、欧米と肩を並べる強国としてアジアを支配しようという戦略が芽生えてきました。
 これに反発したのが西郷隆盛でした。西南の役は、性急にして全面的な西欧化に反対する西郷隆盛らアジア主義の反乱でした。「征韓論」を主張し、武士階級の温存をもとめた西郷は武闘派と思われがちですが、実際は防衛論者です。西郷の「征韓論」は、日本の防衛線を朝鮮半島に求め、李王朝との同盟に重きをおきました。
 西郷を基点とするアジア主義に立つ皇道派と、大久保利通や岩倉具視らがおしすすめてきた近代化路線を支持する統制派がやがて軍内部で対立します。
 拡張主義をとったのは、近代化主義の統制派でした。国民皆兵と富国強兵をすすめてきた近代化主義のグループは、性急な対支那・朝鮮外交をすすめ、早々に朝鮮半島に兵を上陸させます。以後、日本は、統制派のもとでヨーロッパ型の戦争を志向します。それが、ハワイ奇襲にはじまる対英米全面戦争です。かれらはヨーロッパの方法で英米と対決しようとしたのです。
 これに対して皇道派は戦略を「アジア解放」におき、統制派に対抗しました。アジア諸国の独立を援助し、アジア全土を反西欧の牙城にしようとしたのです。
 ところが「二・二六事件」で皇道派が総崩れになったため影響力を失い、主力の多くは外地へ飛ばれます。その代表的な人物が、中国での戦線拡大やハワイ奇襲に反対だった山下奉文です。山下らのプランは、アジアを侵略している西欧列強を叩き、あとはアジアの独立運動を援け、アジアに日本を中心にした共栄圏を築くというものでした。[10, p27]

日本は大東亜戦争に勝つことが可能であった。 決して、勝ち目のない戦争を始めたのではない。 帝国主義で国を攻略するのではなく、新政権樹立による独立の回復と協同共和、欧米に侵略されない大東亜の建設、それは十分に可能であった。 歴史に”もしも”はないが、以下のような可能性も十分にあったわけである。

 支那大陸で戦線を拡大せず、ハワイ奇襲をおこなっていなければ、大東亜戦争は、まったく様相をちがえていたでしょう。山下奉文のマレー半島の攻略とフィリピン解放の段階で陸・海の戦力を温存させておけば、支那半島は孫文によって統一され、アジア全土は、反西欧の牙城となっていたはずです。(中略)
 日本は勝てるはずがない戦争をしかけたという論は、その現実をみようとしない負け犬根性です。インド、支那、東南アジアの国々に親日政権が樹立されたのち「大和」「武蔵」以下の巨大戦艦や世界最強の空母戦艦が日本海域を遊弋し、八千機のゼロ戦がてぐすねをひく日本軍にそうたやすくアメリカが攻撃をしかけることはできません。
 これは、欧米列強には悪夢です。そしてそれは中国共産党にとっても同様だったはずです。日本が戦争に勝っていれば、アジアが後進性にとめおかれることも、支那大陸に共産主義国家が生まれることもなかったからです。[10, p28]

 

戦後補償について

よく聞くのが、”ドイツはこんなにも賠償を行っているのに、日本はほとんどしていない”という理論である。 ドイツと日本とでは全く状況が違うのにも関わらず、このような話を譲らない人たちがいる。 根本を辿ると、日本が”開放の為に戦った”という事実が余りにも認識されていないという事実に達するのである。

それと合わせて、戦後補償を求めている政権自体に目を向けると、以下のような面白い事実が発見される。

戦後の革命政権が謝罪をもとめるのは筋ちがい
 日本の主要交戦国だった米・英・仏・華らが賠償金を請求しなかったのは、大東亜戦争が戦争犯罪(違法戦争)ではなかったからです。とくに蒋介石は、500億ドルの賠償金を放棄したうえ、日本の軍属と日本人居住者二百十万人を無事に日本に帰国させ、天皇制維持を強く主張しました。連合軍による国土の分割統治に反対したのも、日本と熾烈な日中戦をたたかった蒋介石でした。
 ところが、日本とたたかっておらず、交戦もしていない革命後の中国や韓国・北朝鮮が賠償金に代わる数々の補償や謝罪をもとめ、日本国内では旧左翼系ら反日主義者がその尻馬にのるという奇妙な事態がひきおこされています。[10, p143]

革命政権が起こる前は親日国家であり、賠償金も何ら請求していなかったという事実がここに現れます。 今、賠償を求めて大騒ぎしている人は一体何なのでしょうか? 以下の視点も参考になるかと思います。

 朝鮮半島の2つの政権が日本に謝罪を求めるのは、それまで政府の中枢を占めていた親日派を倒し、米ソの援助をうけて打ちたてた革命政権だったからです。革命政権は、前政権を徹底的に否定するものです。かれらが日本に「謝れ」というのは、日本と組んでいた戦前の政権に対する憎悪からです。現政権が過去の政権を否定するのは自由ですが、だからといってその当時、仲のよかった日本をいつまでも恨むのは、身勝手すぎるでしょう。[10, p144]

又、現在の韓国が日本を恨むのは、教育にもその原因があります。

 北朝鮮・韓国とも徹底した「反日教育」をおこない、日韓併合が悪逆非道な侵略だったかのように宣伝しましたが、これは事実に反します。欧米の植民地支配は、現地人を牛馬のように扱って富を搾取しましたが、日本が朝鮮半島でおこなったのは、金融経済から教育にいたるまで”本土並み”という世界史上、例がない平等政策だったからです。[10, p144]

というように、教育ひとつで人の心持は大きく変わってしまうものなのです。 日本の教科書にしても同様の事が言えます。

 

アジア各国の独立

日本の戦いにより、アジア各国はほとんど独立した。 国内で言い広められている”日本の帝国主義が終わり、アジアに平和が戻ってきた”という史観と比べ、現実はこれほどまでに違っているのだ。

以下は、何故、アジアの各国が今でも親日であり続けているのかを示すものである。

インド独立の父は、ガンジーやネルーではなく、日本軍とともにインド国民軍をつくって英国軍とたたかったチャンドラ・ボースです。いまも、インド国会議事堂の壁には、ガンジーやネルーらの上段にチャンドラ・ボーズの肖像画がかかっています。
(中略)
ミャンマーのネ・ウイン、タイのピプンら、アジアで建国の父と呼ばれている人の大半は、旧日本軍の盟友です。インドネシアなどアジアの国々は、旧日本軍が白人支配に楔をうちこんだのち、武装蜂起して独立を勝ちとっています。アジア諸国が独立できたのは、宗主国が寛容だったからではなく、その宗主国を武力で打ち負かしたからだったのです。
(中略)
日本統治下にあった南アジアの諸国がいまなお親日的なのは、かつてかれらは、日本とともに独立戦争をたたかったからです。
 台湾やマレー半島の多くの国々、インドや南太平洋諸国が謝罪や賠償をもちださないのも同じ理由からです。
(中略)
 日本を非難しているのは、中国共産党や韓国、北朝鮮など、終戦後、革命政権をつくった国々だけですが、かれらが倒した前政権は、日本軍とともに独立の為に列強と戦ったのです。そしてその独立がようやく現実のものとなったとき、ふたたびソ連やアメリカなどの大国のバックアップをうけて全体主義をえらんだのが、中国や朝鮮半島などの革命政権だったのです。[10, p147]

親日であるのはそれなりの理由があり、反日であるのにも、それなりの理由があるということである。

 

これからの日本が行わなくてはならないこと

以下の言葉が、最も良く表している。

 日本は大東亜戦争の結果、世界に百以上の新生独立国を生んだのです。その大半は貧しく、国家の態をなさない未熟児ばかりです。折角生んで、生みっぱなしは無責任です。日本の援助を待つ国が一杯です。これからの日本の青年は、お国のためから世界のため、人類のために立ち上がらねばならない使命を与えられているのです。 これぞ日本民族の天職です。 青年よ飛び立て、そして世界を救へ。[1, P233]

まさに、ここにあるように、日本は世界に貢献する使命を帯びているのではないだろうか。

平成15年11月30日 19時0分 記
12月23日 0時39分 追記
平成18年5月6日 「これらの戦いで傷ついた兵士たち」を削除
5月6日 ハル・ノートとハリー・ホワイトの記載追加
平成19年4月27日 「大アジア主義と帝国主義」を一部修正

■リンク■
a 東京裁判判事 パール博士

■参考■
1 よみがえれ日本(清水 馨八郎 著)日本精神修養会
2 パール博士の日本無罪論 (田中 正明 著) 慧文社
3 広辞苑第5版
4 世界大百科事典(平凡社)
5 エンカルタ総合大百科2003(マイクロソフト)
6 破約の世界史 - この1000年、白人はいかに騙し、裏切ったか (清水馨八郎 著)祥伝社
7 昭和天皇 戦後 [第一巻] 「人間宣言」 児島のぼる (小学館)
8 地球日本史3 - 江戸時代が可能にした明治維新 - (西尾幹二 編)産経新聞社
9 国際派日本人養成講座2 (伊勢 雅臣 著) こだま書館
10 日本よもう謝るな (山本 峰章 著)元就出版社
11 大東亜戦争の大儀 (矢崎 好夫 著)国書刊行会
12 昭和天皇の魅力 (稲生 雅亮 著)たちばな出版
13 宮中見聞録−昭和天皇にお仕えして (木下 道雄 著)公光社
14 戦史を破る (吉松 正勝 編訳)東京書籍
15 パール博士 平和の宣言 (田中 正明 編)東西文明社
16 全譯 日本無罪論 (R・パール 著)日本書房
17 大東亜戦争 失明軍人歌集 戦盲 (佐々木信綱 伊藤嘉夫 共編)
18 日露戦争海外写真集(皆川三郎 編訳)新人物往来社
19 大東亜戦争への道 (中村 粲 著) 展転社

 

 

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