粟島で、お店のおじいさんと話した時も思ったが、このあたりには「べらんめえ口調」の人も多少ながらいるようだ。
親切な言葉、丁寧な受け答え。それが、当たり前だと思いかけていた私の中にアンチとして突き刺さる。
(一部の)都会の人が、他人から奪うためだけに丁寧な受け答えをするのと違い、ここの人がべらんめえ口調で受け答えするのは、(この一瞬に限ってみれば、)いわば当然のようにも思えた。
都会の人がたまに来て、何をしようとするのか。
こちらの資源を奪いにきたのか。
そう、あのべらんめえ口調は語りかけているような気もした。 これは、いわゆる「マス・ツーリズム時代」の悪しき思い出か。そして、グローバル時代のも。
一方、私自身、思い出す。自分自身が揺れ動き、べらんめえ口調の道もなくはないな、と思っていたあの頃を。
子供の頃は揺れ動く。
一片の指突き立て、
水面の水しぶきかな。
笹川流れより
〜 真理というものは、水からはじけ飛ぶ水しぶきの如きものである。
それははかなく、見えにくい。
若い頃は、様々なことをして確かめてみるものである。 〜
(水面は、無意識層を示す。)
(大人が何と言おうと、何と言われようと、私が行ったその
行動は決して「永続的」なものではなく、一時的なもの。
「行動が決して変わることがない」と言う前提の元に発言する
「大人」の言動は、若い頃は無視すべきである、と私は思う。
そして、そのように「変わらない目」で見る大人とは、
決して再会もできないものである、とも思う。)
先ほど、お昼ご飯を食べた。
そのご飯が悪かったのか、どうも調子が悪い。
お腹の調子と、頭の調子。頭も、ちょっとぼーっとする。
実は、お昼ご飯を食べる適当なところもなさそうだし、あるんだけどちょっとおしゃれめのところばかりだし、その他にもあるんだけど、ちょっと高そう、ということで、自炊をすることにしました。
ご飯そのものはスーパーで買ったキャベツとお肉。だがここで失敗してしまったことは、お肉をすべて焼いてしまったこと。
というのも、元々はお米も買う予定だったのが、そこのスーパーでは2kgのが売ってなかったので買わなかったのだ。
それなので、量も足りないからと全て焼いて食べたところ、気持ち悪くなってしまったということだ。
半ベジタリアン生活を目指しているところに、お腹もさぞかしびっくりしたことだろう。それで、しばらく気持ち悪いまま走った・・・。
コンビニがあったので、もしかしたら蛋白質が足りないのでは? と思っておにぎりを食べてみたが、効果なし。
うーん。
そして、その後、コンビニを出たすぐのところで会った、向こうから来たチャリダーを見たのだが、気持ちが高揚しなかったというわけだ。
やはり、私は腐った社会人になってしまったのか? それとも、単に体調が悪かっただけなのか?
私的には、両方の原因が絡み合ってはいるものの、やはり、自分自身が腐った社会人になってしまっていることを感じる。
意気投合できず、頭がデジタルに犯され、自分の気持ちをストレートに表現することができない「大人」、そしては「社会人」。
どうも、私には「社会人」という言葉に対する悪いイメージがついているようだが、つまりは「サラリーマン」「会社」というものに対するイメージからそれは来ているのだろう。
そして、私自身にもその悪いイメージのものが潜在的に存在している。
そして、今、それが現れてきているのだ。
自分自身を、もっと表現豊かな存在にしたい。
その為には、もしかしたら、まずはベリタリアン生活が必要なのかもしれないが・・・・。
自転車の旅であっても、ベジタリアン生活で問題なく行けるというのもわかってきたし。