メインメニュー  HOME  瞥見記  動画館  バイク  旅の道具
 

インナーゲームの呪縛

(注意:現在と視点が変わっている点がありますが、記録の為に残してあります。)
■注意: 個人的な内容となっております。興味のある方だけお読み下さい。■ 

このページでは、私が数年、いや、十数年に渡って悩まされてきた、「インナーゲーム」という本について少し書きたいと思います。


著者、W.T.ガルウェイ(後藤新弥 訳)

「こころで勝つ!! インナーゲーム (The Inner Games of Tennis)」

(日刊スポーツ出版社・1976年出版)



この本は、レッスンの本ではありません。

テニスの本ですが、この本の訳者による前書きの言葉を借りれば、「如何にして”勝つ心”を身につけるかの実践理論の本」となります。


ただ、私はそうは思ってはおらず、恐らく著者の狙いもそこであると思うのですが、この本を読んだ限りでは「如何にしてプレイを楽しむか。」の本だと思うのです。 ただ、この本の訳者による前書きにあるように、いわゆる「勝つための精神論」として受け入れられているのが現状のようです。

この本では、「セルフ1」と「セルフ2」という説明の仕方が出てきます。

まず初めに、『二人の「私」の発見』から全ては始まるというのです。


いわゆる「セルフ1」とは、あれやこれや頭の中にしゃしゃり出てくる、「雑念」を示しています。
そして「セルフ2」とは、いわゆる「真実」を見つめ、「ありのまま」を表現・観察する主体として表現がなされています。

ここで、重要視されているのはセルフ2の方です。


例えば、如何にして「セルフ1」の「しゃしゃり出」を拒み、「セルフ2」に自分の体を自由にさせるか、といった知識が表現されています。

セルフ1はいつも「論理的」で、「セルフ2」は「感覚的」です。


ここでは、(よくありがちな、)「セルフ1の動きが、セルフ2の邪魔をする」という点に焦点を当て、如何にしてセルフ2に「ありのまま」のプレイをさせるか、といった点が表現の主体となります。

  • 「努力」は美徳ではない。
  • 実は「自分」というものは、物事を如何に進めればよいのか、必要な事は全て知っている。
  • 「セルフ2」に「自分」を任せ、ただ自分は「セルフ1」が「セルフ2」の邪魔をしないように、その方法を「実践」しさえすればよい。つまりは、「観察」しさえすればよい。

このような事が表現されています。

それ自体はとてもよい知識だと思います。


だが、何故私がこれに振り回されたのか?

それには、長い長い話が必要になるのであって・・・・。

落とし穴にこれ以上の人がはまらないためにも、長いですが、ここに表現する次第です。


 



  1.「感動」は偽物。 〜 こころで勝つ! インナーゲーム 〜
  2.肯定的な判断というものは、否定的な判断への「反応」でしかない。
  3.自分を他人だと思え
  4.「セルフ1」と「セルフ2」
  5.この本の悪い点
  6.「すごい」という言葉。
  7.アナログとデジタル
  8.さいごに

 

 

 

 

 

「感動」は時には偽物。 〜 こころで勝つ! インナーゲーム 〜

この本は、私にとって、ある種の因縁の本だ。

私はこの本によって、簡単に操られるようになった。


小学校、低学年だか高学年だかの頃、私の周囲でこの本が流行った。 それは、担任の教師が振りまいたものだった。

その教師は、何やら「インナーゲームクラブ」(?)だかいうところにも入っており、その教師の姿形は、「これは凄いんだよ!!!」であった。

その、「これは凄いんだよ!!!」という感覚、その教師が放っていた感覚は、いわゆる「人を奴隷にする感覚」とよく似ていた。


今、思うに、過去において密教が禁教とされたのも、よくわかる気がする。 こうして、知った人だけが簡単に他人を操れるようになるような知識。 このような知識が世の中に出回ってしまったら、優越意識と結び付いたその意識は、簡単に「他人を操る術」として用いられてしまう。

優越意識とは、「必ず成功を収めなければならない」ということ(言い換えると、「間違ってしまったら動けない。」ということ) に対する囚われでもあり、この本には、確かに真実の知識が書いてあるが、それを「見方を変えて」見たとすると、それは「どうやったら間違えるか」・「どうやったら失敗するか」が書いてあるということでもあり、いわば、「間違いを誘発させる」ということが可能になってくるのだ。

それがスポーツなどならばまだいい。 それを「知識」にまで持ち込み、「相手の失敗」、つまりは「相手の誤認識」を誘発させる。 そしてその後、たいそうご立派な、とてつもなく飾り立てられた、見た目はキラキラ、一見すると輝いているかのようにも見えなくはない知識をご披露し、相手を自らの操り人形としようとする。

それにはまったら、抜け出すのはかなり困難だ。 既に思考は間違ったものに置き換えられており、自分自身の生きる指針は見失われており、何が本当のことなのかもわからない。 周囲の姿を見るにつけ、これが正しいのか、あれが正しいのか、あっちへこっちへと動き続けても何も見えない。 そして、周囲の人たちは、こういった人に対してはほとんど助け舟を出そうとはしない。 見ているだけだ。  助けは、来ない。


過去、そのことを実感した。 私は、簡単に操られた・・・・・・。



頭ではわかっている。 頭ではわかっている。 「それ」に乗ってしまうことがとてもばからしいことを、頭ではわかっている。

だが、操られてしまう。 「頭」ではないのだ。 真実は、「頭」ではないのだ。 操られることに、「頭」は抵抗力を持たないのだ・・・・。


これは、その、ほんの初めに過ぎなかった。 不思議な感覚によって、私は簡単に操られた。

人は、人によっては簡単に操ることができる。 その、根本の点を見た。

私は、ずっと操られた。それ故に、そこから抜け出す為の道を、後の人たちに記したい。

いや、確かに、「抜け出す道」を伝えたいのではあるが、それは結果でしかないのだ。 一番大切なことは、真実を見つめること だ。 そちらをまず第一に、伝えたい。

 

 

「心の声が私ではない」という知識


「心の声が私ではない」という知識は、悪用されると他人を簡単に操る術に用いられる。

その知識は、裏を返せば「心の声が私だと思いこむと、機械的な人間になる」ということを示している。

これが、かつて、私が行われたことだった。

この知識の悪用は殺人的だ。 人を、生ける機械人形と化し、他人を自在に操るその様は、犯罪的だ。精神的警察というものが存在していたとしたら、死刑ものだろう。

つまり、「『おまえ』というものは、『心の声』なんだよ」と教え込めば、その教え込まれた人は必ずや他人の操り人形になる、ということだ。 これが犯罪でなくして何が犯罪だというのだろうか。 そうして教え込んだ方は他人を操り、そしては誰も真実を知ることもなく、ただ「処世術」に身を任せ、やがては「誇り」という殻をかぶった「優越意識」の虜となって行くのだ。


この知識は、それと同時に「他人も私もない。全て同一」という知識と共に配布しなければ悪用されうるものであり、それが全く理解できなかった過去においては、このことが「秘伝」とされ、隠されてきたのだろう。

全ては同一であり、その上で、心の声というものが何なのかを知り、そしては、「自ら」というものを知ってゆく、その道の最初にあるものこそが「心の観賞」である。

そして、それは入り口ではあるものの、その基礎は永遠と続く。
それこそが、「”自ら”は全て知っている」と呼ばれている所以である。


だから、私は「知識」には重点を置かず、「知識は、誰もが手に入れられなくてはならない。それに一番適しているのが、インターネット」と思っている。


 

 


この本では、「真実は、ありのままにある。」ということと、「人は、教えなくても自分で修正する力を持っている。」などと言った事が書かれている。そして、その反例として、これこれこういう自体でこうしてしまうと、このようになってしまう、のような事も同時に書いてある。上で私がやられたような、ああいった言葉の掛け声は、「これは逆効果」として書かれてあった。

だが、書き方が、「これこれ、こうなってしまうのだ!」と言った書き方であり、いわゆる「感動」を連想させるような書き方であるということ。 つまり、その「感動」が行き場を無くし、私のような犠牲者を次々に生んでいるような気がしてならないんだ。

簡単に「感動」を呼び起こさせたその本。 そして、その「感動」は行き場を求め、例えば私のようなものが実験台にされる・・・。 私にしてみれば、あの本の「感動」は、全くの邪魔者だった。

当時、私は次のように思ったもんだ。

「『感動』ってもんは、他人を操るために存在しているのか?」
 「だとしたら、聖書とかだって、他人を操るために存在しているのか?」

と。

まあ、聖書のことはよくわからないが、この本に関して言えば上の事は私の周囲では当たっていたように思う。


この本の中では、「競争社会においては、尊敬される人と尊敬されない人と、明らかに分類される」として、あまりよろしくない例としてこの本では表現されていた。

私はここで、次のようにこの一文の後に付け加えたい。

『「感動には、感動されるものと、感動されないものと、明らかに分類がなされる』と。

 

「競争」も、「感動」も、同じように使われる可能性がある、ということを言いたい。「競争」という場においてはその「分離感」がきちんと認識されているのに対し、こういった「感動」という場においては、その「分類」がきちんと認識されていないように思える。


私はあの場で、「感動」というものを、いわば「感動されないもの」として、いわゆる「分離」として人々に用いられている場を見た・・・・・。 真実は、感動されるものも感動されないものも、どちらも一体であることを理解することが本質であるのだが、ここでは「感動されるもの」のみが強調された。 感動されない、いわば平凡なものは、価値がないかのように扱われた。

 

感動、それ自体はもちろんあるもので、あってももちろんよくて、あるところにはもちろんあるものだと思う。だが、それが誤用され、いわゆる「競争」の「目くらまし」に、そこでは使われていた。

当時、私は失意のどん底にいた。 そして、私をかろうじて繋ぎ止めていたのは、自らに対する「優越感」であった。 他人より勝らなければならない。 そして、勝らなければ、明日はない。 勝らなければ、「私」は死んでしまう・・・・。

その、「勝る」という心はその裏返しに、次のようなことも言っていた。「間違ってはいけない。 間違ってはいけない。 間違ってはいけない。    常に正しくなければならない。 正しくなければならない。  正しくない答えを言ってしまったら、お前は死んでしまうんだよ」、と。

私は、間違えることが出来なかった。間違う度に、深い傷を自らに負った。 そして、私は他の人よりもちょっとだけずるがしこかったから、私は相手の人を、私以上に傷つけていた。

かろうじて「勝ち」に留まることが出来ていた私。でも、それは空しいものだった。 だが、そこから離れたら死んでしまう・・・。 そんな状況は、「他人を操る術」を手に入れた人にとっては、格好のカモだったようだ。


それは、「誤った答えに導く術」と、「感動」という目くらまし。

誤った答えに意図的に人を導き、そこであらかじめ用意されていた「答え」を、さぞかし「感動」というものを持って表現を行う。 それは、その「感動」は、確かに真実の一面ではあった。 だが、その「感動」そのものは、人に英知を与えたりはしない。 操る人によっては、益々人々を真実から遠ざけることにもなる。

そこで行われていたのは、「真実から目をそらす方法」。 人は、「他人を操る術」を手に入れた・・・・。


私は、簡単に操られることとなった・・・・・・。


頭ではない。頭ではない。 頭では、私はきちんと物事を「理解」していたはずだった。 だが、間違った方向へと向かってしまった。簡単に操られた。 真実は「頭」ではないのだ・・・・。

 

この本、「インナーゲーム」は、「勝負に勝つための本」である。 だがしかし、この本の著者は、必ずしも「勝つため」だけにこの本を書いてはいない。 そのことは、この本を見ればわかる。 とは言うものの、これを読んだ人が、悪用しようと思えばいくらでも悪用できるような知識が、この本には詰まっている! 他人の能力を殺ぎ、真実から目をそらすための手法が、この本からはいくらでも算出できる!

そんな状況は、この日本において、決して珍しくはなかっただろう。 今も、「学校」という場所では、多くの場合において「人は、勝たなければ生きてはいけない」を繰り返し指導している。 このことが、のほほんと「勝ち組」に生きている「大人」に、どれほどのものがわかるというのだろうか・・・・。 そして、他人に延々と「勝つこと」を強要するような、度々見にする、自分で何やってるのかわかっていないような人たちに、どれだけのものがわかるというのだろう。

人は、こうして「勝ち組」と「負け組」に強制的に分けさせられる。 これが、こんなのが本当に「先進国」と呼べるだろうか?

わかっている人だけがふんぞり返り、他人を操って生きていけば良いと考えるような社会に明日はあるのだろうか? ローマ帝国に恨みを買って滅ぼされた、カルタゴの二の舞になる気がしてならない。 このまま行けば、きっとなるだろう・・・・。 私は、そんな気がしている。

やがては、何も考えてくれない日本の事を恨み、どこかの国が攻めてくるかもしれない。 そんな風にも、思ってしまったりする。


できることならば、この本を読んで欲しい。 それなりに有名だし、インナーゲームの違うバージョン本が数冊出ているので、きっとどこかで見つかるだろう。

多くの場合、この本を読むのは大人だろう。 だがしかし、子供、特に勝負に熱中している子供や、まだまだ勝ち足りない大人が読んだとき、その周囲の人々が不幸になる。


私がこの本を始めて読んだとき、まだ小学校の低学年だか高学年だった。 そこでは、とにかく「すげえ!」という意見が教室内で行われたもんだ。

その担任すら、「この本は凄い! と言って、自らを失っていたくらいだ。」


実際には、「インナーゲーム」そのものというより、「インナーゲームクラブ」(?)とかいう、この本を主体とした、コミュニティクラブの会報(?)のようなものに対して感銘(?)を受けていたみたいだが。

 

 〜  〜  〜


私は、とある機会があって、この「インナーゲーム」にそれなりの繋がりを持つ、とある”エセ覚者”とネット上で少し話す機会があった。 かなり昔のことだ。

その人は、とにかく「感動が大事!」を主張していた。 そしては、私が何かことあろうに、「感激は、こういうことを言うんだよ!」という事を主張していた。

何かにつけ、「感激が大事。 感動が大事。 この感覚を、『感じて』欲しい」というその人。
その人は、「とにかく、図書館にでもあると思うから読んでみて。すっごく感動するから。」と言っていた。

それ自体は、確かにその通りだとは思う。 だが、私はこの人から、明らかな不信感を抱いていた。

つまり、この人は、「自らの奴隷」が欲しかっただけなのではないのか? と、言うこと。

つまりは、あまりにもこの本の主張を重用しするが余り、「セルフ1」の虜になってしまっているのではないのか? と、いうこと。

 

ここではあっさりと書いてしまうが、この”エセ覚者”とのやりとりは半年以上にも及んだ。今では信じられないことだ。 それほどまでに、私は騙しやすかったのだ。

 

やがて、予感は的中した。 この人は、「自らの奴隷」が欲しかっただけなのだ・・・・。

「感動」という餌を撒き、カモが寄ってくるのを待っていただけだったのだ。 もしかしたら、自らは自覚していなかったのかもしれないが。 私はとことん悩んだが、1回だけ会って、それっきりにした。 交流を経った・・・・。

今思えば当然の行動であった。 ただ、当時はその判断力がなかった。


当時は、「感激」とか「感動」ってものに、ぐらぐらと体と心を揺り動かされていた。

いや、この言葉は言い換えが必要かもしれない。誤解を招きそうだ。 つまりは、「当時は、感動とか感激とか言うものの種類が今とは違っていた。」と。


エセ覚者の最後はあっけなかった。 あの人は、まるでヤクザの如く人を怒鳴り、見当外れの主張を繰り返した。

実は、その主張は、小学校の頃にあの、「担任」がしていた主張と全く一緒であった。 ここまで似るのも珍しい。 実は、その主張の発生源は一緒だったのだ・・・・。

つまり、この人は、「こうすれば他人を操れる」という技術を、ずっと変えずに持っていただけだった、ということ。


あのような表現が出来るということは、彼はある程度の識者に違いない。 だが、どこかで足を踏み外した。

 

〜 〜 〜

真実を見抜く目は、必ず養われなければならない。 だが、その途中で、上のようなエセ覚者と出会うと、人は不幸になる。


私は、その基準を、「突き放すかどうか」で決めている。


エセ覚者は、とにかく「自らの奴隷」を欲しがっている。 あれこれ言うものの、結局は、自ら離れようとはしない。

あれやこれや言い、とにかく、「自らの感動」の中に相手を引きずり込み、相手の判断を鈍らせる。

これは、新興宗教も同じなのではないかな? とは思う。 同じ。 とにかく「感動」で「凄い!」を強調する。


言葉の「それぞれ」は確かに正しかったように、今でも思う。 それぞれ、ある種の「感激」は込められている。

だが、何かがおかしい。

その、不快感。

その不快感を当時の言葉で表すと、言わば、『自らが、「自由」を欲しているかのよう』で・・・・・・。

「自由」と「奴隷」の狭間、葛藤していたのだと、今ではそのようにも思う。

 

 

 

 

 

 

「囚人になるか、死ぬか、どっちがいい?」



どっちがいい?


生きるか死ぬか・・・。

 

ここで、奴隷になるわけにはいかない。 ここで、囚人になって囚われの身となるわけにもいかない。


死ぬべきものはある。そして、生き残るべきものはある。
ある意味、死人で、だが、生を伴った死人を、私は選ぶこととなった。

 


私は、死人を選んだ。 私は、あの”エセ覚者”から離れる道を選んだ。 いや、かろうじて、あの人から離れようと、「自ら」を「今居る場所」にじっとこらえ続けさせた。



人は、一度死んでから初めて「生」を生きる、という言葉がある。 「個」を知り、「”トータル”といういわば幻想」を捨て、地に足のついた見方を得て初めて、私は「感動」から逃れることができ、結果として、あの”エセ覚者”からも離れることができた。

 

 


この、インナーゲームという本、これにとにかく私は悩まされた。

小学校から中学、そしては、大学2〜3年の頃までであったから、かなりのものだ。


この本は、私にとって因縁の本となった・・・・。

こういった本に取り付かれる人は、自らが勝ちを望んでいるか、或いは自らが奴隷になりたがっている人かもしれない。


確かに、この本の内容は参考にはなる。 だが、「参考」にした人は、決して「取り付かれる」ことはないであろう。

取り疲れはせず、この本の「内容」を汲み取る筈だ。


それはつまり、上で書いたようなトータルさを身に付け、つまりは「エゴ」が解決されて始めて、これを読むべき内容だったのだ、と、今更ながらに思うのだ。

エゴが解決されないままに方法論だけを学ぶと人は不幸になる。 とてつもなく、そう思う。

それは、今の現代社会の「処世術」という名の操り術に現れているように思える。操る側も哀れだし、操られる側も哀れだ。結局、どちらも奴隷のようなものだ。どちらも、「生」を生きていない。

 

 

私はここで、「本に魂を抜かれる人」を見た。


私はここで、「本をもって、他人を操る人」を見た。


私はここで、「本をもって、他人の魂を抜き取る人」を見た。


真実というものは、かくも力を持っているものか、ということを実感した。

 

「このような本は、永遠に封印すべき」・・・ という気持ちにならなくもないが、既にこの知識はこの世の中に出回ってしまっている。


人が、人として、他人を操らずに生活できる日はいつ来るのであろうか。

私は、当時、他人に延々と操られていた。 目はうつろで、生きる糧を失っていた。 その原点にあったのが、この本。 インナーゲームという本だ。

この本には、私を盲目にし、私が操られるようになった原因ともなる知識が、ほとんど眠っていた。


だが、逆に、その点が見えてきた頃には、より一層の生気と気づきを持てるようになった。

つまづきの原点を見れた気がした。

 

人は、「感激」に乗った後、一度”無”の状態に戻ることを繰り返すべきだ。

そのまま、感動だけに頼ったまま、進むべきではない。

 

そして重要なのが、”感動とは、与えた側は概して、大して特別に思っていないこともある”ということだ。

例えば、最近見た映画、「グラディエーター」の中では、主人公はいつも冷静そのものだった。だが、周囲の人は「ああ、英雄」として崇め倒す。 そして最後には、「真のローマの戦士」として称えられる。この映画の中では、「これこそが英雄」として、「感激」の的として、この主人公は描かれていた。


だが、主人公は自らの人生を生きただけだった・・・・・・・・・・・・。

 


私が言いたいのはここだ!


主人公は、自らの人生を生きただけだった!!!!!!

 

 

確かに、”感動”を生み出す気概・誇りの高さは尊いものだ。 だが、私の会ったあの人は、”奇跡のない気概・誇りの高さ”と”奇跡による感動”を混同しているようだった。

真実とは、真実そのものにこそ、意味がある・・・。


確かに、私も初めて「グラディエーター」を見た時は、ひどく感動した。 そして、そういったものも含めて、真実と言うものには確かに感激も伴うものだという事もよくわかっているつもりだ。


だが、しかし! しかしである。

あそこ("エセ覚者"のところ)では、ただひたすらに「感激」のみが強調された。 実際の「真実」は後付けの意味合いでしか表現されておらず、「この、とっても感動的なこれを感じて欲しいのよ!」とか、「真実ってのは、ほんとに *感動的* なものなんだから!」と言った言葉ばかりが強調されていた。


何故、この人は私に付きまとうのであろうか。
何故、この人は私にこれほどまでも「感動」を植え付けたがっているのか。

私の体は、この1点、「拒否反応」に集中していた。


私は常々、次のように思っていた。

 ふざけんな! そんな小出しにしないでさっさと全部流せ!!!(かなりむかつき口調で。)

こんな口調、どうしようもない気持ちになったのは、20年間生きていて初めてだった。そして、その原因が「インナーゲーム」だった。


これほどまでに他人に対して怒りを味わったのは、今から思ってもこれが最初で最後だったと思う。


この時ほど、数ヶ月に渡って怒り続けたのは、過去においても例がない・・・・・・。

 

 

こういった会話の後、この本人と会った。

 

・・・・・・・・・・・・・・。  一目見て、帰ろうかと思った。

その口調はヤクザそのもので、その口から喋る言葉は、私が小学校の頃に担任から聞いたのと同じ内容が混ざっていた。 私には関係ない内容も混じっていた。

その「目」は、今でも忘れない・・・・。


それは、今では”エセ覚者”を判断する基準にもなっている・・・・・。


とは言いつつも、あそこまでエセだと、話聞いただけで判断できてしまうが。今は。 当時は全く盲目だったなあ・・・。しみじみ。

 

 


ここでは、簡単に他人を盲目にし、「他人に勝つが為に他人を盲目にする知識」が深く眠っていた。

こういった知識に出会えた人はいい。 こういった知識に出会えた瞬間、「負けることがなくなり」、「相手の意図もわかるようになる」からだ。

だが、出会えなかった人はどうなるのであろう。 私が強調したいのはここだ!


他人が知らないからと言って、勝手に他人を操ってもいいのだろうか。 勝手に自分勝手にしてもいいのだろうか・・・・・・。

今、私は「過去、海外を多く旅した人」に対し、上で見たような「目」をよく目にするようになった。
日本の人が海外に出て、一体何をしてきたのか、今更ながら頭が痛くなる思いだ。

このような「目」を見た時、私は決まって、ローマに滅ぼされたカルタゴのことが頭に浮かぶ。

こうして、カルタゴも滅ぼされたのだろうか、と・・・・・・。


日本の人々が、どのようにして世界から嫌われていくようになったかを、垣間見た気もする。

やがて、このままでは日本も、ローマのカルタゴの如く潰される日も、そう遠くはないであろう。
そうならないように、この日本で、しっかりと「真実の知識」を根付かせたい。


私にとって、「インナーゲーム」との出会いは悪夢の連続ではあったが、今、その呪縛から逃れた今、更なる視点を持ってこの現実と当たれる。 だから、よかったと思う。

インナーゲーム。 ここでは、その、非常に魔力的な「感動」の裏面を見た。


人が、人を如何にして操るようになるのかを見た。

私は、「与えられる感動」はごめんだ・・・・・・。

その事を学べた、良い経験だった。

魔法は、解けて初めて真実を知る。

魔法は、自らがかけなくてはならない。


他人からかけられた魔法(真実)とは解かねば真実が見えない、ということ。
そして、自らのかける魔法(真実)は、自らの人生を創造的なものにしてゆく、ということ。


ここでは、与えられる魔法でのみ全てを操ろうとした人がいた。

そのことが、私を不幸にした。 いや、抜け出せる英知を得た。それゆえに、不幸も不幸でなくなったのだ。

平成13年3月21日 記
平成13年5月17日, 平成14年3月18日, 平成15年4月20日手直し

 

補足:

ここで知ったことは、

「現状を表すもの(真実)」と、「結果として現れるもの(これもまた、真実)」の
 見極めをしっかりしなければ、落とし穴に墜ちる、ということ。


例えば上で言えば、「勝負は勝ち負けじゃない」という言葉は、実際には「結果」として
現れてきていたものだった。元々は。

しかし、ここでは、それは「課程のもの」として表現されていた。


両者は、全く違ったところを根として持っており、課程は課程、結果は結果として
それぞれの真実がある、ということ。


ここでは、「課程」である物事に対し、随所随所に「結果」を盛り込むことにより、
一時的な感覚の飛躍を催し、一時的な感覚の遊離、つまりは「感動」を呼び起こす仕組みを見た。

そして、その仕組みが仇となり、「自ら」がどこかにはじけ飛んでしまう姿を見た。


感動、そのものはそれでいい。

だが、しかし、

「感動、それは確かに素晴らしいものとは思う。
 だが、しかし、それは同時に、とてつもなく的を外している、とも言えるのだ。」

と、いうことを言いたい。


感動とは、例えば「グラディエーター」の映画のように「覚者」と「愚者」 という、2種類の人々がいるところに起こる。

それは単なる「状況」だと言う人がいるかもしれない。だがしかし、逆に言えば、『「感動」をもたらすためには、2種類の人々が必要。』ということでもあるのだ! もっと言えば、『感動を要求するとなると、愚者を意図的に「作り出そうと」する人々』が、あるところにはできてしまうということ!!!

こんなばかげたことがあるだろうか。 人々は「真実」を見いだしたいだけなのに、一部の人々の、身勝手な「感動」とやらのために、一部の人々が意図的に「愚者」になり下げられる。こんな社会、本当に先進国と言っても良いのだろうか・・・、と、つくづくそう思う。


ここでは、「結果として現れたのではない感動」は、偽物であるということを見た。物事は、「進行状態、それ自体」と、「行った、結果」では、それぞれの真実は違って見えるものだということを見た。どちらも真実だが、違って見える、というところを見た。


ここでは、「感動」を利用し、他人を操る人々の姿を見た・・・・・・。

 

少し前に書いた言葉を、再度ここに載せておきたい。

夢には、2つあると思う。1つは与えられる夢。そしてもう1つは創造する夢だ。

与えられる夢は、破壊しなくてはならない。魔法が解けると、真実の世界が待っている。
創造する夢こそが自らにとって大切なものだ。自らの魔法により、満ち足りた人生をつかむ。

始め、魔法を解くために私は旅をしていた。続いて、魔法は解けた。
そして、今は自らの人生をつかむために旅をしている。

スタンスは、こうして変わっていった。旅とは、人生そのものを表しているのだと、つくづく思う。

平成13年3月21日 記
平成14年3月18日, 平成15年4月20日 手直し

 

 

 

 

肯定的な判断というものは、否定的な判断への「反応」でしかない。

肯定的な判断も、否定的な判断も、どちらも必要ない。

ただ、 観察  だけが、そこでは必要になる。


無評価。無判断でいること・・・・。


「しかし・・・。」と、そこで、いわゆる「心の声」が「無判断」の邪魔をする。

 

 

 

 

自分を他人だと思え

このような事が、この本では書かれている。 言っていることそのものはとてもいいものだとつくづく感じる。

これは、いわゆる「方便」だ。


いわゆる「気づき」、それ如何によって、自然と『自らは、自らが「所有」してはいない。』 の感覚は深まってくる。


ここでは、「自分を他人だと思え」と言っている。

それは、その通り。

だがしかし、それ自体、「それを守るだけ」という点に留まってしまったならば、それは本来の意味合いへと近づくことも、又、違った方向へと近づくこともあり得る。

つまりは、善人にも、悪人にも成り得るということ。

ここで、「自分を他人と思え」というのは、その前提の認識、『この世界の全てのものは、「自ら」は保有してはいない。それは、自らの体ですら、そうだ。』という認識からそれは訪れる。

だがしかし、その点を通らずに、ただ「自分を他人と思え」と教えられたならば、それは「自ら」とか「他人」と言った意識の上で物事は運ばれ、つまりは、未だ「自分は自分。他人は他人」という意識の上に留まることになる。

ここでは、「結果」が重んじられた。

だがしかし、私は、「過程」を重んじたい。


私は、ここで言うところの「結果」の方法論によって過去、痛い目を見た。

それは、前の項目で扱った通りだ。 だから、ここでは、その真実を、日の目にさらしたい。

 

 

 

 

 

 

 

「セルフ1」と「セルフ2」

この本では、「セルフ1」と「セルフ2」に分けて、説明をしている。

セルフ1は、いろいろと文句を言ったりして邪魔する自分。
そして、セルフ2は、「真実」を知っている自分だ。

この本の流れは、主に「セルフ2を信頼しなさい」という流れで出来ている。


つまりは、セルフ1は、「こうしなきゃ」とか「これはだめだ」とかいう、「判断」をする自分。
セルフ2は、「ただ、見るだけ」を実行し、「ありのまま」を見つめ続ける自分、という流れだ。


この本では、どちらも「自分」という書き方をしている。

そしては、自分自身のゲーム、つまりは「インナーゲーム」として表現している。

勝負事は、「他人」という「相手」のいるゲームではなく、「自ら」の中の心の平安を求めるための「ゲーム」である、というわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

この本の悪い点

この本の悪い点は、それがあくまでも「方法論」であることだ。方法論であるが故に、その根本の「原点」とも言うべき点を見失う。

とは言うものの、こういった「実感」は体験なくしては語れないものであり、必要なものだとは思う。 私が問題だと思っているのは、体験論・方法論のみで「前提となる認識」が欠けている点だ。


それ故にこの本は、「こうすれば、勝てる。」という、単純で、ありがちな、『簡単に他人を「落とす」人々』というものも創造した。

簡単に言えば、他人の足をひっぱる人々、ということだ。


私は、こういった、「他人の足をひっぱる人々」に足をひっぱられた。


こうした、「他人の足をひっぱる人々」は、きっと自覚していないに違いない。それか、自覚しても尚、それを行っているのか。

それも全ては、きちんと「本当の知識」が表現されていなかった為だ。



本当の知識とは、『実際は、「自分」も「他人」もない。』 という、根本の点。


ここを原点にしていないが故に、簡単に他人を引きずり落とす人々を創造してきた。

 

 

 

 

 

 

 

「すごい」という言葉。

つまりは、自分とこの本の著者の考えの違いについて、あまりにも差異を感じたのであろう。


この事を思い出すと、私はいつも、次のような言葉を思い出す。

『「すごい」と言わせるだけなら、マジシャンだってできる。』

「すごい」というものは、本質ではない。


本質とは、それがあるべくしてそこにあり、それ故に「本質」なのだ。

だから、「本質」とは、常に「ありきたり」のものになる。

常に、「再発見の道」となる。


そこで味わう「感嘆の感覚」は、この本を通じて味わったいわゆる「感動!」とか、「感激!」とか、「すごい!」などとはちょっと異なったものだ。


再発見の道には、再発見の「感動」がある。


だが、ここでは、上で説明したような、「セルフ1」と「セルフ2」の表現に代表されるような、『「結果」を表現したことによる、物珍しさ』が、際だっていた。

 

 

 

 

 

 

 

アナログとデジタル

この本では、「セルフ1はプログラマ」という言葉が使われていた。

つまり、セルフ1は「きっかけ」を自分自身(セルフ2)に与えるための、「プログラマ」だというのだ。


これは、うまく説明したものだ、と、今更ながら再度読んでみて、そう思った。


私は常々、「アナログとデジタルの差異」を表現してきた。

時には、「その差異に気づいていないが故に、大自然を破壊する」、というような事を言ってきた。


ここでは、『「セルフ1」はいろいろとうるさいけど、いないと困る』というところから説明を始め、無人島にいる原始人に野球を教えるには、まずは「セルフ1」から働きかける、という事を解説している。

つまりは、本質は「セルフ2」にあるけれども、どの導入部分に関しては「セルフ1」の役割だ、という訳だ。


これはなかなか、いい説明だと私も思った。


ほんの少し付け加えるならば、『アナログとデジタルを混同することの原点にあるものは、「自ら」に対する意識の浅さが、そういった「混乱」をもたらしている。」ということ。

 

 

 

 

 

 

さいごに

こうして、偶然に古本屋でこの本、「インナーゲーム」と再会し、再度読んでみるに、なんでこの本を読んで、あのような「優越意識の虜」になったのだろうか、と、なんとなく心が飛ぶ。

それはつまり、『「自らの意識の過程」を通り越し、「飛び級」しようとした人の姿。』なのではないかと、今更ながらに思うのだ。


当時、私に次のように言ってくる人がいた。

「あんなのと相手にしててもしょうがないじゃないか。
 おまえの言うように、あの先生も、あの人たち(他のクラスメイト)も、
 ほんとのところをわかっていないと、俺も思うよ。
 
 だけど、そんなのを相手にしていたら、おまえも一緒じゃないか。」

と。


私はこの当時、「それはそうだ。」と、確かに思った。

言い換えるならば、「セルフ1」が、「それはそうだ。」と、答えたのだ。


私の答えは、本質ではなかった。


今、思う。

こうして、人は「先んじる快感」に心を奪われるようになるのか、と。 お互いに、シーソーゲーム。 どちらかが先んじれば、そのカタチに固執する。そんな姿が、永遠と続くかに思えた。

当時、その脱出方法を知らなかった・・・・・。


今、私は思う。

「全ては、まずあらかじめ、必要な知識をきちんと与えていなかったのが問題だ。」

と。

私は、そういう思いが、常々ある。


私が、何でこうやって書いているのかと言えば、要はそういった、「情報量の格差」 によってもたらされてきた悲劇を、たくさん見てきたからだ。には、その事を表現したりもした。 そんな姿。 そんな世界を見て、私は「情報は、広く与えられなければならない。」と、常々思うのだ。


時々、次のような言葉を耳にする。

「別に、私はそんな、HPなんて作ろうと思わない。」という人。
「昔は、自己主張の方法はいろいろあったしね。」という人。

こう言った人は、あくまでも「自己主張の場」としてHPを捉えている。


私にしてみれば、「なんじゃそりゃ。」であり、何故、こういった人たちは「情報」を、自らの中にだけ留めておくのか、と、常々思うのだ。

確かに、「田舎との情報格差」の中で述べたように、いわゆる「勝ち」を重んじるあまり、「主張」や「表現」をしなくなるという姿はある。

だがしかし、多くの場では、「そんな必要ないんじゃない?」という、いわば「その土地しか知らない人」の、もしかしたらとてつもなく幸せな理論がそこに転がっているのだ!

それが例えば、こういった、「インナーゲーム」という場では、そういう習慣が仇になる。Webを調べてみたが、インナーゲームを扱っているHPは少ししかない。

まあ、古い本ということもあるが・・・・。そもそも、一つの本にこれだけ囚われ、振り回された人も珍しい、ということか。


ここでは、「インナーゲーム」という本を通じ、私が必要だと思われる知識を得た。

「テニス」という場において、いわゆる『「勝負」から初め、「勝負ではなくなる時」』を、この本の中で、「願い」として横たわっているのを見た。

 


本。 そしては「文章」というものは、魔力を秘めているのを見た。

著者の願い通りならば進める道が、とあるところではねじ曲げられているのを見た。

 

そんなところを通り過ぎ、私は、やはり「自分自身」が大事だと、強く知ることとなった。


他人は存在しない。 社会は存在しない。 周囲から与えられるものは、全ては「反応」でしかなかった。

「感動」、それすらも「反応」でしかなかった。


全ては、まやかし。 単なる、「反応」でしかなかった。


それに、気づけた。 それが、一番大事だと気づけた。

だから、この一件にはとてつもなく悩まされはしたが、とても良かった一件だった。


私は、「感動は偽者ということも有りうる」という事を知った。

 

 

以下は2003年以前に書いたエッセイです。
平成15年以降
  □朝三暮四
  □論理は悟りに繋がる
  □設計主義と行動主義と
  □”やまとごころ”と”誇り”
  □旅の道、行く末
  □「精神」を構築する旅
  □写真について
  □今年の抱負
平成14年
  □一部の環境団体の姿
  □人間界と天使界の物語
  □全てを諦めること
  □旅の種類
  □スタンス
  □一歩、そこが天国
平成13年
  □見出してきたもの
  □テーゼ
  □インナーゲームの呪縛
  □夢をもつこと
平成12年
  □ロジックの使われる道
  □未知を求める心
  □「気づき」とは
  □旅について思うこと
平成10年
  □素直さとは
  □田舎との情報格差
  □石の重さ
  □行わずして行うこと
  □道について
  □合作というもの
平成9年
  □あの風のむこうに
平成6年以前
  □子供の頃の話

[ リンク ]
アウトドアグッズ通販
自転車・パーツ通販
バイク用品通販
釣り道具 通販
カー用品 通販 (自動車)
バッグ・雑貨 通販
フラワーギフト・花束 通販
スイーツ・洋/和菓子 通販
ワイン通販
食料品通販 (肉・野菜・魚 etc)
ジュエリー・アクセサリー 通販
美容・コスメ・香水 通販
ペット・ペットグッズ 通販
CD・ミュージック通販
おもちゃ 通販
生活雑貨・インテリア 通販
DVD・映画ムービー通販
資料室
メインメニュー  HOME  瞥見記  動画館  バイク  旅の道具   

Copyright(c) 2000-2008 eternity. All rights reserved. [連絡先]