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心の声が一回で終わること。それこそが悟りである。
心の声が2回、3回と共鳴をすること、これこそが「鬱」である。
そして、心の声が2回、3回と共鳴をしてしまうような状態にいる人が、
何とか「真実」を突き止めたいと望んでできたものが「科学」であったりする。
(つまりは、科学とは「心の声は頼りにならない」というところを出発点としている。
そして、科学はあいまいなものを排除している。厳密なもの以外にもたくさんの世界が広がっているのにもかかわらず、だ。)
平和とか心の平安は、「必然的」に訪れるものだと私は思っている。
必然的に訪れるからこそ揺るぎがなく、「確信」に満ちている。

奈良の天川村・近くにて |
それは「内的」なものだ。
それは、状況によって変わるものではなく、心境でもなく、
ただ、そこに「ある」もの。
それは時に「ありのまま」と呼ばれ、「固執をなくすこと」とも呼ばれる。
簡単に言えば「気づき」である。
「気づき」、ここでいう「気づき」は、「内なる声を聞く」ということ。
たとえば、心の声を聞いたとして、それに対し2回、3回と共鳴を
してしまったのであるのならばそれは「気づき」ではない。
それは、「反応」になってしまっている。
「気づき」がなされる前は、人は「外」の情報でしか判断ができない。
平成12年9月24日 記
補足:
そのことを踏まえず、ただ「愛が大切」だとか「平和が大切」だとか
言っているのが今の世界。
つまりは、そこには「何故」が抜けているわけで・・・・。
つまりは、「理解」の部分が実感にまで至っていないからこそ、
まだ気づいていない人に届いていないのだと思う。
創造的な行動はエゴをなくす。
単なる行動は何も生み出さない。
エゴとは「引っかかり」だ。それ自体がエネルギーではない。
怒りや悲しみや喜びはエネルギーだが、エゴはエネルギーではなく、単なる「引っかかり」に過ぎない。
その「引っかかり」が「心の声の連鎖」を作り出す。
「心の声が一回で終わること」と「悟り」と「エゴがなくなること」とは、
同時に訪れるものなのだ。
エゴとは、「わたし」だ。
次第に「わたし」が消え去る・・・・。「わたし」など、どこにもいなかった。
大海に滴が落ち、滴はもはや「わたし」を意識することはなくなったのだ。
心の声は、自分自身の姿を映し出す。
心の声を聞くことは、自らの姿を見いだす最上の方法なのだ。
それ故に、昔から「日記を書くこと」とか「心の声を聞くこと」が
重要だと言われてきたわけだ。
重要なのは、自らの感覚を見いだすこと。
どこからか入ってくる感覚と自分の感覚を見いだせる時が来る。
それを観察すること。
「考えること」とは、自らの感覚を見出して初めて行うことができる。
たとえばその見いだす方法に、とある人は座禅(何もしないこと)を
選ぶかもしれない。又、とある人は「行動すること」を選ぶかもしれない。
だが、その奥に眠っているのは、必ずしも座禅が必要だとか行動が必要だとか
いうことではないということ。
とある人は座禅が必要だと言う。
とある人は行動することが必要だと言う。
だが、そんな方法など、どうでもよかった。
一番重要なのは、自らを見いだすこと、これだけだったのだ、と。
大海に落ちた滴は何も見いださない。何も見いださない。
ただ、必要だったのは大海を見いだすこと、これだけだったのだ、と。
「考えること」とは、「ありのまま」から来る。
「ありのまま」とは「『わたし』のないこと」であり、
真実とはそれを見つめることだけ。
まずは大海を見出すことから。
「考えること」、そしては「判断力をつけること」とは、その後に自然と身につくものなのだから。
平成12年9月26日 記
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