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この意味するところは、”思考パターンをくまなく網羅すれば、心の声が必ず1回で終わる”というところにある。
これを理解する為には、次の事を”仮定”することが必要だ。 (既に認識に至っている人にとっては”確信”)
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心の声が1回で終わることが悟りである。
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心の声が2回3回と続いてしまう事が”鬱”である。
”論理それ自体”が悟りをもたらすのではない。 論理とは、この日常生活における俗な出来事を、その状況下において”一時的に形に留めたもの”である。
そして、もちろん、”今生きている世界”における”悟りへの道しるべ”としても論理は使われる。 であるから、当然、論理が不必要ということには絶対ならない。
状況下でその”論理”は著しく変わる。 だが、論理から繋がる、”悟りの状態”は決して変わらない。

一方、違った例も紹介しておこう。
座禅を行い、そして、座禅が終わり立ち上がるときに起こる ”足がしびれた。アイタタタ・・・”という感覚は、そこには”表も裏もない”わけであり、つまり、”心の声が一回で終わっている、悟りの瞬間”である。
又違った例で言うと、
言葉に出来ない美しい、それは美しい景色に出会ったとき、人は言葉を失う。 ”わあ・・・。” と、その瞬間はまさに、表も裏もなく、当然、”心の声が一瞬で終わっている”状態なのである。
つまり、”悟り”への道は数多く存在している。 そして、”論理”から求める道もまたあり、そして、それを行っている人もいるということ。 どちらも、”行動それ自体”から悟りへ繋がるわけでもなく、”行動した結果、その状態へ達する”という共通点があるわけである。
運動や座禅では、その行為を行った後。 論理では、その思慮をし尽くした後、”悟り”という名の”それ”は訪れる。 その”静寂の瞬間”、それこそが悟りの本質であり、行為そのものからは切り離されている、ということ。
ヴィトゲンシュタインという人が、”論理は悟りに繋がる”と言ったらしい。 そして、それと同時に、それを成したらしい。 私は、この人の”この言葉”を聞き、そして、私なりの”論理から悟りへの道”をここに記述した。 彼と言っていることと私の言っている事が違っても、それはそれとして捉えて欲しい。
平成15年8月7日 12時15分記
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