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未知のものを求める心は、「定められた道に従わない」ということの体現でもある。
あとは、神秘を求めるこころ。
いろいろな、いろいろな障害がそこにはある。
いわば、その障害を取り除き、神秘なるものと一体になることこそ、「未知なるものを求める心」なんだ。
人は、いろいろなところでその道を誤る。
時には、それを、「誰も登ったことがないから、やってやるぜ!」という
心と結びつけたりする。
それは、それでいい。それは、それでいい。
というのも、その人にとってみれば、それは解決しなくてはいけない道だからだ。
「それが、それがなくなって初めて、その『神秘』を得る。」
だが、なにも、わざわざその障害と「戦う」必要はない。
戦う必要がないのに戦っている。
神秘とは、変わり変わらずそこにあるもの。
それを求めるために、人によってはそれと「戦ったり」するかもしれない。
ただ、私の言っておきたいことは、
「拒絶していたその モノ も、体に取り入れてみれば、
体を『通して』あげれば、やがて、やがては『愛』になっていくんだよ・・・。」
と。
拒絶していたもの、それすらも『愛』と思える心。
そう感じられる、素直な心。
そのために、何をやってもいいと思う。
ただ、それに飲み込まれなければ。
それが存在している「意義」を見失わなければ。
すっかりと眠り込んでしまうことが「私は、わからない。
わからないということを知っている。」の意味ではない。
「わからない」という言葉は、いつまでも「神秘」として残る。
ただ、それに、人によっては障害がある、というだけ。
神秘は神秘として残り、変わらず人は神秘を求めて行く。
そして、その「神秘」こそが「愛」そのものである、ということを。
神秘が神秘としてそこに居留まるとき、そこには「愛」がある。
人の「神秘の深さ」は、そのまま「愛の深さ」となる。
旅は、神秘を求めるもの。
旅は、何かをしに行くこともなく、「ただ」、行くもの。
旅は、「何も求めずに、」行くもの。
旅では、何も得るモノもなく、「何もない」ということを得て帰ってくるもの。
神秘はモノを変え、神秘そのものとしてしまう。
神秘によって、人は「鏡」を知り、自らの「輝き」、そして、「落ち着き」、「気づき」を得る。
人は、元々、何をやってもいいもんなんだ。
そこには、「神秘」がある。 「神秘」あるところには、善悪も存在しない。
人は、たとえ犯罪者であっても「神秘」を持っていれば救われる。特にそう思う。
神秘。神秘。
機械的なこの世の中、神秘とデジタルの棲み分けをしていきたい。特に最近そう思う。
平成12年11月5日 記
注意! 多々、記述が古い個所があります。
思想・概念・状況等、今とはかなり違っている個所があります。
人や文化とは「歴史」こそが重要と考える為、残してあります。
ご理解の上、参照下さい。 (2003/1/2 記)
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