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現象のみで人は生きているのではありません。
事象と事象、その間を繋ぐものは、人々の気持ちです。 事象だけでは歴史は出来ません。それは年代記というものです。人というものが入って初めて、”歴史”が生まれるのです。
現代社会は、人を余りにも機械化してしまいました。 その根本原因は、”設計主義”とも呼べるものでしょう。 良いことを見つけても、それを設計思想で捉え、固定したものとしてしまう。 設計主義そのものは悪いものではなく、これ故に人々は豊かになったのですが、今まで持っていた、模型化されていない人間像を失っているのが現代社会の問題の根本原因でしょう。
道具というものは、人によって作られます。目的に合わせて。 そして、それを作り上げるのは”設計”であり、そこから作り出されるものは”使われるもの”です。 この設計主義を、現代社会は人間にも当てはめてしまいました。 人間そのものを、”使われるもの”として育ててきてしまったのです。 ここから生まれたのが、残虐な行為も平気で行う子供たちです。

抜け出す道は、本当に簡単なのです。 現代の、模型化されてしまった人間像ではなく、前近代の模型化される前の人々を捉え直し、そこから再出発すれば良いのです。
子供たちの教育にしても、私自身、左翼教育を高校まで受けた経験から言って、人間を機械化する教育でしたし、と、同時に、自らの国に誇りを持てなくする教育となっています。 何故、左翼教育が人を機械化するのかは別の機会で話します。
一方、”不真面目”な人だけが現実を捨て、そしてたまに、真実を見出したりします。 その姿が、又、人を惑わします。
もう、そろそろ、真面目な人が幸せになっても良いのではないでしょうか。

設計主義というのは、物事を計画してから実行すること。 又、逆に、実行してから物事を考えるのが行動主義とも呼べるものでしょう。
世の中は、この両者が重なって存在しているものです。
例えば、新しいものを作り出す時は、既存の知識や経験を元に設計し、その上でいろいろやってみて調整、作り上げて行きます。
既存の知識や経験は設計主義に属するもので、いろいろやってみることは行動主義に属するものです。どちらも、相互を補完するものです。
だが、現代社会は、設計主義こそが至上のものとしてしまった。 失敗を語ることをタブーとしてしまった。
実は、その失敗とは一時的なもので、その失敗が成功を作る、いわば”失敗は成功の元”であるのにもかかわらず。
現代社会の闇を抜け出す道は、本当に簡単なのです。 この、設計主義と行動主義のバランスを取ること。 ただ、これだけなのです。
平成15年7月13日 22時45分

補足:
そして、前近代、日本はこのバランスをよく取っていたと言えると思います。 世界中を見ても、誇れるほどの立派な人々、仁義、愛、道徳に優れた様々な人材が日本にはいました。 彼らから学ぶことは、とてつもなく多いと思えます。
近代の左翼教育(共産党教育)は、日本を卑しい小国と思わせることに精力を傾け、一方、”全ての人は平等”という、一見甘いまやかしで持って人の尊厳を破壊してきました。 日本の左翼教育の現場では”やさしいやさしい”を強調しているのにも関わらず、共産党支配が行われている北朝鮮においては”民族の誇りを持たせる為の教育”を施していると聞きます。この矛盾は何を意味しているのでしょうか?

まず、日本から左翼教育を一掃すること。そして、政界から左翼派閥を一掃すること。同時に、マスコミからも左翼勢力を一掃すること。 これ以上、日本の国を弄ぶ左翼派閥には怒りを感じなければなりません。 怒ることは悪いこと/人間が出来ていないことだと思うようになってしまったのも、左翼教育の結果です。 怒り狂う雷オヤジは、ある意味偉いのです。
少し前までは左翼教育を間に受けていましたから、私も”日本はもうダメだ”と思っていました。 ですが、最近、ネットで知り合った様々な繋がりを見ることにより、日本は素晴らしい文化を持っている国だと思うようになりました。 自らの国に誇りを持てるようになってきたのです。 それでも、どこか胸を張り切れないのは、まだ左翼教育が尾を引いているのですが。
自らの人生を十数年も無駄にさせた左翼教育、その真実を知っても尚、”怒ることは悪いこと”だと言えるでしょうか。 真実が解き放たれ、まず初めに来るのは”怒り”です。 その息吹を感じます。 日本人は、馬鹿ではありません。 その日が来るまで、少しづつ、啓蒙活動を続けることとします。
平成15年7月13日 22時50分

補足2:
”主張なんてない”という人が一番危険。 何故ならば、それがいつも免罪符となるから。
誰かに対し口を出すのならば、その人と共に生きるべき。
一方、個人的な興味や研究心からであれば、その事を明らかにすべき。
創造的な立場(政治であろうと芸術であろうと)にいる人々が(現代の、一部の)批評家を相手にしなかったりするのは、”共に生きようとしていないのに、口ばかり出す”からだ。
尚、”創造的人間”とは、いわば、設計主義と行動主義のバランスがとても良く取れている人たちのことだ。
平成15年7月13日 23時33分

補足3:
この、行動主義と設計主義とのアンバランス現象を如実に表しているものとして、”エヴァンゲリオンの悲劇”がある。
このアニメを知らない人に少しだけ解説すると、ストーリーは以下のようなものである。
「近未来の日本にて、突然の大爆発が起こった。それは、”使途”と呼ばれる巨大怪獣の襲来だった。この怪獣はどこから来るかもわからない。それに対し、巨大ロボットが作られ、対戦に備えられた。だが、それに乗れるのは15歳くらいの子供だけであり、しかも、機械とシンクロしなければ少しも動いてくれない。一方、感情が暴走すれば機械も暴走して暴れだす。この少年たちは日本を救えるのか?」 とまあ、このような物語だ。
この中で、主人公のシンジ君は、成長しても成長できない、アニメ史上稀に見る(?)、”成長しない主人公”として登場する。
アニメというものは現代社会の姿を如実に表すものの1つであるが、これはいわゆる、現代教育のジレンマをそのまま表している。 何がしかの訴えをしていないという点でマスターベーション的なものであるが、だが、それ故に、本質をそのまま示していると言える。
この中で、”きっとこうなる筈だ。”とか”なんでこうならないんだ”とか、シンジ君は悩み続け、そして、”暴走”という形としてシンジ君の操るロボットは敵をなぎ倒して行く。
この、現代社会そのものの姿を示していることに、アニメの偉大さを感じずにはいられない。

こうなってしまった原因の1つとして、上に挙げた、計画主義と実行主義が挙げられると思う。 主人公のシンジ君は完全なる計画主義だ。 そして、行動することに恐怖を持っている。 失敗に恐れを抱き、そして、それはアニメの中では父親に対する恐怖という姿で描かれている。 父親に受け入れられない恐怖として。
そして、最終的にシンジ君の頭の中で”祝福”されて、”これでいいんだ”で幕を閉じるのであるが、これは、傷を負ってしまった現代の若い世代のそれなりの範囲に広がっている、通らなければならない1つの道であると思う。 大人たちは”みっともない”とか言うが、その傷を作り出すことを止める事の出来なかった人たちに、そんな言葉を言う資格はないのだ。 一方、運良くその悲劇に合わなかった人も、悲劇に合っている人をどうこう言う資格はないのだ。
エヴァンゲリオンは、最後まで見たら、”ああ、ここは違うんだ。あっちへ行けばいいんだ。”と気付いて歩き出し、エヴァンゲリオンそのものは捨て去る為のものである。 それに気づかせてもらう為のものとしては、最上であると言える。 一方、”気づき”を認めない、設計思想でしかものを考えられない批判論者はエヴァンゲリオンをマスターベーションとみなし、価値のないものとみなす。

少し視点を広げて見れば、レベルの違いこそあれ、このような”気づき”は至る所に存在している。 ハイレベルな点においても、その”気づき”は存在している。 が、一方で、それは女々しいものとされ、恥ずかしいものとされ、言葉はいつも”結論”と”設計”でもって語られた。 気づきを捨て去るという誤認識こそが”計画主義”至上主義によるもので、行動主義とはいつも”気づき”に満ち満ちているものだ。
ポイントとしては、シンジ君は”行動したくても、行動はタブーとされていた”という点と、”ちょこっと行動して初めて、新しい世界への一歩を踏み出した”という点である。 アニメを見ている視聴者としては、これを認めることができるかどうか、が、認識の差となって現れる。 認めることが出来るのであれば、”計画主義”至上主義の元からの、”バランス”への輝かしい一歩と捉えることが出来るが、認めることが出来ないのであれば、上に出たような認識や、或いは、”結果を出していないのだから意味がない”とか”その程度で”とか考え出す。
シンジ君は、現代の生み出した悲劇である。 多くの若い子供たちも同じ悲劇に遭遇している。 解決策は、上に述べたような、”計画主義”至上主義からの子供たちの開放だ。 正常なバランス感覚さえ取り戻せば、子供たちは、その豊かな感性を取り戻すであろう。
平成15年7月14日 3時22分
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