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「気づき」とは、何がしかの理解を得ることではなく、ただ「そうであった」と気づくこと。それ自体の気づきを指す。意識が「反応」から離れ、反応を「見るもの」となる。 それこそが「気づき」であり、「見るもの」こそが「私」である、と、私は呼ぶ。
「行動なき行動」こそが禅の極意であり、まずは「無(=諸行無常)」を知り、そしては「空(くう)」を知る。 「空」を知って初めて「神秘」の意味を知り、「ありのまま」の意味を知る。まずは物事を飽くまで客観し、物事の無常さを飽くまで体感する。そこで「自ら」というものが空虚な、単なる「反応」を元としたものであったことに気づき、その気づきが深まり、自らの「自由さ」を知る。単なる「無」は破壊的だ。そこに「空」の「気づき」を知り、人々の繋がりを知る。
愛の道と瞑想の道とがあると言った人がいる。愛の道から入ろうとも、瞑想の道から入ろうとも、どちらも真実。 愛の道の途中では瞑想の道のやり方が矛盾に見えたりする。 逆に、瞑想の道の途中では愛の道は矛盾に見えたりする。 だが、それは真実の一面であり、その一面から真実を追い求める、ということをしていただけのこと。
「空」に至れば「愛」も知るし、「無」も知る。 大切なのは「空」を知ることであって、どちらの道から進んでもいいもの。 私は「無」の道から入った。それを記している。
平成13年7月23日 記
注意! 多々、記述が古い個所があります。
思想・概念・状況等、今とはかなり違っている個所があります。
人や文化とは「歴史」こそが重要と考える為、残してあります。
ご理解の上、参照下さい。 (2003/1/2 記)
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