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見出してきたもの 〜
2001年以前に見出してきたもの(まとめ) 〜
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| (注意:現在と視点が変わっている点がありますが、記録の為に残してあります。) |
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| ■注意:
個人的な内容となっております。興味のある方だけお読み下さい。■ |
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(少なくとも、私にとっての)宗教のオルタナティブ。 盲目に対する、オルタナティブ。 (少なくとも、私にとっての)精神論に対する、オルタナティブ。 (少なくとも、私にとっての)論争に対するオルタナティブ。
それは、「気づき」そのものを問うこと。
- 心の声が一回で終わることこそが悟り
「 なーんだそんなことか」と思うかもしれません。 もしそうだとしたら、その心の声こそが悟りを妨げているものであって、人生を楽しめなくしている要因でもあるかもしれないのです。
人生とは、シンプルなものです。 何も言わずにたたずんでいる、自分が全く存在感を感じていない、普段見向きもしない人がもしかしたら私も知らない、真実の生き方をしているかもしれないのです。 愛は、誰の元にでもやってきます。 誰でも悟ることができるものです。
(参考:「気づきとは」)
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肯定的な判断というものは、否定的な判断への「反応」でしかない。
肯定的な判断も、否定的な判断も、どちらも必要ない。 ただ、 観察 だけが、そこでは必要になる。
無評価。無判断でいること・・・・。
「だが、しかし・・・。」と、そこで、いわゆる「心の声」が、(ありのままであるところの、)「無判断」の邪魔をする。
☆「セルフ1」と「セルフ2」のこと
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話をわかりやすくするために、セルフ1とセルフ2という言い方をもって、説明をしてみたいと思う。
セルフ1は、いろいろと文句を言ったりして来る、「心の声」。
そして、セルフ2は、「本質」を知っている自分。
人生豊かに生きるためには、「セルフ2を信頼」して生きる生き方を学ぶ必要がある、と切に思う。
つまりは、セルフ1は、「こうしなきゃ」とか「これはだめだ」とかいう、「判断」をする自分。
セルフ2は、「ただ、見るだけ」を実行し、「ありのまま」を見つめ続ける自分であり、セルフ2の起こす行動とは内面的なものであり、静かなものであり、衝動的なものではない、ということ。
(「インナーゲームの呪縛」より)
- 「気づき」は、多様性の元である
気づきを達して初めて、多様性を知ります。 気づきを知る前は、多様性とは単なる「状況に対する、結果」でしかなかった。 だが、気づいた後はその「存在」自体が多様性であることを知るのです。そして、多様性の認識こそが、平和の「元」となっていくということ。
- 「気づき」は、「判断」というものを教える。
「気づき」を知る前は、「判断」は単なる「反応」でしかありません。
上で、「肯定的な判断と否定的な判断」、そしては「無判断でいること」と書いてありますが、そのことは「気づく前段階において、心がけなくてはならないこと」として書かれています。
気づきを得た後の「判断」は、又違ったものとなります。
それは、状況を見る心、そのものとなります。
判断とは、一時的なもの。 物事は常にトータルで、よく言われる例で言えば、「真理とは、球である」ということ。 今の見方と他の人の見方が違ったとして、それに何の意味があるというのか。 それは、単に「そうなっているだけ」という種類のものであり、その判断は常に「ありのまま」と言ったものに気づくものになります。
心は、移り変わる。 心に、一定の姿などない。 見方にも、この見方が絶対というものはない。
全ての存在が「自覚」を繰り返していて、ただ、今この瞬間にはそう見えていた、というだけ。
- 「論理」は、「気づき」とは対極にあるもの。
だからといって、無意味ではありません。
全く何も知らないとき、それを教えるのは「気づき」ではなく、「論理」です。 上で少し書いた、セルフ1とセルフ2の役目はここにあります。 セルフ1は論理を実行し、セルフ2は気づきを実行します。 全く初めての経験をする時は、セルフ1が役立ちます。 ですが、それも始めのうちで、セルフ2の方が本質をつかみます。
つまり、セルフ1とは、プログラマなのです。
それは違うんじゃないかと指摘されたので補足:
ヴィトゲンシュタインという人の言葉で「論理を突き詰めると悟りになる」という言葉があるらしいが、そのことを「セルフ1とは、プログラマ」という言葉で示しています。
表現は違いますが、同じ事を指しています。
- 気づいた後は、その結果(の認識)は実に多様性あふれたものである。
全ての人生には自由があります。 大切なのは「気づき」であり、だがしかし、今まで「気づきは大切」とは言われては来ていても、そこで見出されているものは「気づいた後の認識」であったように思う。
(気づきは大切と言いながら、「気づき」そのものを見出していない? そのようにも感じたことがある。)
気づきは多様性の元であり、「気づき」という視点から見れば全ては「元は1点から始まった」ということがわかるのです。 この点に達して初めて、世界から戦争がなくなり、平和が来るのです。 私たちの待ち望んでいるものは、この世界です。
- 「気づき」は、宇宙を見出す
羽ばたくことができるようになる。 何ものにも囚われのない姿を見出すことができる。
- 「気づき」は、 いつも見失われがち
いつも、「気づいた後の認識」が取り沙汰された。
- 「気づき」は、「神秘」を見出す

神秘は、神秘として そこ に残る・・・・・・。
それこそが、神秘。
そしては、旅をすることの本質こそがこれだと私は思う。
(「未知のものを求める心」より)
- 「気づき」は、「意見」を「表現するもの」へと変える。
そこに、「主張」 はない。
- 「気づき」は、自らの生活を「夢」のようなものにする。
「自ら」はとても軽いものとなる。 なんにでもなれる。 自由な姿を表現できる。
夢のように、すべては ゆめ まぼろし のもの。
「実体」がなく、自らの主張・考え方すらも変わってゆく自らを見出すことになる。
そして、「それを、見守るもの」こそが本当の自分であるということを見出す。
意見に対し柔軟になり、自らの姿・主張もそれに伴う。
「自ら」がいないのだから、それは簡単なことだ。
- 気づいた後、「行動」とは、「行動せずに行動する」ものとなる。
気づく前の行動は、「反応」でしかない。
気づいた後は、行動を行う時の「私」がいない。 それゆえに、「私」は行動を起こさない。 だが、それでも実行動としては行動している。 故に、「行動せずに行動する」ものとなる。
実際には、数多くの「創造的になるが為の行動」もあるのだから行動を否定しては、もちろんいないが。(行動しなくては悟りも得ることはできない。 つまり、全ては「求め」如何に関わって来る訳だが。。。)
それ故に、全ての行動は、人や状況、全てに関わらず、「偉い」というものは存在しない。
一方、 尊敬に値する行動というものは存在するが、それは「本人」とは全く関係のないことだ。 つまり、気づきの後の行動とは「行動せずに行動」している訳だから、そういう人は尊敬されても、それと自分とは切り離して受け止める。(一緒にして受け止めた瞬間、真実から転げ落ちる。)
- 「真理」とは、「自らの中」にある。
「気づき」から、それが見出せる。
「全てはここにあったのだ。」と。
それに気付くようになる。
平成13年11月18日 記
平成14年9月3日 若干手直し
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注意! 多々、記述が古い個所があります。
思想・概念・状況等、今とはかなり違っている個所があります。
人や文化とは「歴史」こそが重要と考える為、残してあります。
ご理解の上、参照下さい。 (2003/1/2 記)
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